建築系ラジオ: 武智仁志のラヂオは友アーカイブ

武智仁志のラヂオは友

「SDレビュー2011入選者によるラブな空間論」の感想です。
「北川さんの多視点のすすめ」、「所有感と所有権」

ご挨拶が遅くなりました。
本年もよろしくお願いいたします。

久しぶりの感想です。2011年は、仕事も震災の影響が大きい一年でした。間接的ではありますが仕事を通して復興のお手伝いをさせていただいたのかなあ。直接的ではないので、あまり実感はないですね・・・。
明日もあるとは限らない精神で生きたいところですが、根がノンキなようで。
今年は、平凡でもいいから幸せを感じられる毎日が過ごせますように。

それでは、2012年の感想一発目です。
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「北川さんの多視点のすすめ」

何も知らない僕が(?)、誰かに、「これはラブホです。」と言われ、「ああ、そうですか。で、どうやって使うのですか?」と聞くとしましょう。使い方を教わってからは、素直にそういう使い方しかしない。「いや、まてよ・・」と疑ってかかる事は、まずなかったでしょう。情報を与えられて、皆がそう使ってるから特になんの疑いも無く、そういうものなんだと「素通り」してしまいがちだと思うのです。常識なんて、なんともったいないコダワリだろうと。知らないあいだに、流されて生きているんだなあと、ふと考えちゃいました。

そういえば、僕は使い方を教わっていないはず・・。なのに、どうやって利用方法を知ったのだ?ここで、強引かもしれませんが、「視覚的無意識」に関する五十嵐さんの論考を見つけました。(こういうの大好きです。面白い。もっとちゃんと理解したいですね。)ロザリンド・E・クラウスが言っている言葉のようですが、ひとつの情報を繰り返し与えられ続けることで習慣化し、無意識としてすり込まれるのでしょうかね。

僕が住んでいる辺りは、東京とは違ってラブホは人里離れた場所にあるものでした。それが、いつの間にか街中に浸食といっては失礼かもしれませんが、存在しているようです。ラブホがやってきたのではなくて、街が広がっていったのかもしれませんね。詳しく調査したわけではないのですが、田畑の減少を見ているとそんな気がします。

普通に目にするようになったとはいえ、先入観があって、家族でラブホを利用するには抵抗があるかなと。「先入観」と標準的な誰かと自分を相対化してしまって・・、あ〜要するに、人の目が気になってしまいます。こちらのは、車でこっそり入って、こっそり出て行くので、なんだか悪事を働いているような気分にさせられます(笑)。意気地なし。
無批判的行動主義には、ほど遠い毎日です(笑)。

こうあるべきと思っている事に対して、スッと違う視点で見られたら生きていく上でもすごく便利なんでしょうね。うまくいかない時って、だいたい、まず間違いなく、思い込んでいたり、一部しか見えない場所から見ていたりしていますからね。ピカソの絵画のような見方が大切なんだなあと思いました。


「所有感と所有権」

これもまた、興味のあるお話でして、しかし、異性に対する所有何々は経験値的によくわからないですが、建築に置き換えると、まだ分かるような気がします。

法律上の敷地のお話。
お隣さんと親しくさせてもらっていますが、現在の親しみ度をふまえると、敷地境界にある色気のないブロック塀は取り払ってしまいたいとまで思っています。そうすれば、法律で認められた所有権によって区切られた、せまーい庭をもう少し広くできて、お互いの子供達をもっと自由に走らせることができるからです。(特に晩ご飯の準備中は、子供達に外で走り回ってもらう方がお母さんが助かります。)現状でも、庭でバーベキューや餅つきをやったりしてますので、ブロック塀さえ気にしなければ、お隣さんの庭には所有感を抱いています。そして、お向かいの広めのご近所さん家の庭も、季節によって様々な花が咲き、我々家族や、ご近所さんの目を楽しませて頂いてます。所有権はないのですが、とても所有感がありますね。ただ、お隣さんは借家ですので、お隣さんによってはブロック塀の主張が強く感じられるようになるでしょう。

所有権という言葉からは、「モノ」に対する自分の立ち位置を自他ともに「認めさせる」ためのルールや秩序というものを感じます。所有感という言葉からは、境界線がゆる〜く、あるようでないような自己満足でも成り立つ、個人的な価値観(共有もできます)で対象をみている感じを受けます。所有感を刺激する建築なり、敷地を工夫できれば都市や街はもっと過ごしやすい環境になるような気がします。建築は輪郭を持っているため、庭にある樹木のような所有感を持たせるためには、建築のスキマを共有できればいいのでしょうか。スキマというのは建築の間、庭や道路や建築の上空などのことですね。あるいは、屋内の一部かもしれません。時間帯によって使われていない空間とか。パブリックとプライベートみたいな話になると、やっぱり樹木の所有感とは違ってくるような・・。建築は輪郭を持っているが、空間を含んでいるので、この空間と建築のスキマをうまくリンクさせると・・・。あ〜、言葉では色々と妄想できるのですが、絵にしようとすると全然違う!「視覚的無意識」になるくらい何度も描き続けなければ答えのようなものは出てこないかぁ。

おっ。ここで、コロンブスの卵のような疑問が浮かんできました。
所有感をもっと広げるためには、前提としてご近所さん達に対して心許せる人間関係を築いていなければキツいですよね。建築の力で、ご近所さん達との人間関係を築いていけるものなのか、それとも、北川さんのラブホ話のようなソフト面の工夫でご近所さん達との人間関係を改善し、それに伴って建築のカタチを変えていく方が良いのか。住宅街に多い家屋は、一戸建てと言いますから、オモイっきり区切られてますからね。そもそも、建築家が建築を「作品」と読んでいること自体が都市を分断させているのかも・・。「ここまでは俺が考えたやつ。こっからあっちは他の誰かが考えたやつ。」って境界を主張したがってるってことですもんね。メーカーの家でも、敷地分譲でここはうちが売ってる領域ってやってますね。とは言え、都市計画とリンクするには並大抵ではない時間を要しそうです。この時間を惜しむか、そうでないか。

自分がコントロールしきれないスキマ領域をどう捉えられるかが所有感を左右するかも。DIYレベルで家をさわった経験で言うとですが(プっ!)、設計者がコントロールできない要素をデザインに組み込む可能性も面白いかもしれません。土木的でランドスケール的な樹木の成長を待つような設計手法です。一般的な人が、一生を左右する程の金額を家にかけて「買う」のではなくて、今持っているお金を使って、少しづつ完成に近づけるという工程を計画に組み込むのです。一人の人間の作品とは言えなくなります。芸術と言えるかどうかの視点で言うと難しいかもしれませんが。しかし、皆が日常的に家をつくる行為を身につけたら芸術的な出来映えになると思います。自分の家をつくるのですから、現在のような家づくりの素人のままではいけないような気がします。ここまでくると街のスキマ領域が活かされると思います。無計画でも芸術的な美意識を伴ってスキマが活用されるなんて、ある意味、アルゴリズミックな手法なんですかね?話が脱線したような、つながっているような・・。やっぱり、前田さんの「ビー玉」的意識をあらゆる人達がもてる事が大切な気がします。すみません、エラそうな事を言いました・・・。

家族単位や、一戸単位で区切られてしまうというのは、色々あるのでしょうけど、「異性」との関わり方も大きいのでしょう。あらゆる行為を大胆にご近所さん達に披露するわけにもいきません。かと言って、ガチガチに分断していくと結局は引きこもり家族が増えるばかりで・・・。コンテンツで話されていたクリスマス時期のロビー話は、所有感をコントロールできるヒントがあるような気がしました。

一室空間だけれども、建築の使い方が状況を生んで、仲間意識に影響を与える・・か。物理的には境界がなくて、カップルという分節ができています。しかし、北川さんは一歩踏み込んで、このカップルまでシャッフルしようと?(笑)。家族単位とか、近所単位に置き換えると、建築のありかたを変えられる視点だと思います。このコンテンツ内容と、『建築と日常 特集:建築の持ち主』(長島明夫 編集・発行)が妙に自分の中でリンクしました。(この本で紹介されている『生きられた家』多木浩二著 をネットで見つけました!読むのが楽しみです。)

北川さんのコンテンツは、色々と物議を醸し出す要素が強いかもしれませんが、よくよく聞いてみると表面的な会話の奥に本質が隠されているような気がしています。
ジェンダーのコンペも聞き直して、いろいろと考えてみようっと!


・関連項目
・北川啓介の無批判的行動主義
 SDレビュー2011入選者によるラブな空間論 [1/3]

・北川啓介の無批判的行動主義
 SDレビュー2011入選者によるラブな空間論 [2/3]

・北川啓介の無批判的行動主義
 SDレビュー2011入選者によるラブな空間論 [3/3]

・第13回TEPCO快適住宅コンテスト提案部門
 TEPCOインターカレッジデザイン選手権公開審査会 1 プレゼンテーション前編

・第13回TEPCO快適住宅コンテスト提案部門
 TEPCOインターカレッジデザイン選手権公開審査会 2 プレゼンテーション後編

・視覚的無意識としての近代都市──三つの都市の展覧会をめぐって
 五十嵐太郎

「お金と建築」の感想です

お金と建築。
これは、「お金と○○」というように、○○の部分になんでも当てはまります。お金と何かを交換するということは、「何か」に価値があると判断して、それに対してお金の量が決まるのが本当のところだと思います。

この夏の体験で、見えないところにどうこだわるかが大切なんだなと思う出来事がありました。
この夏の体験・・・ドキドキ。
おっとー、皆さんが想像しているような事ではないですよー(笑)。

節電の夏ということで、1階の居間と洋間の間にある階段下の押入スペースの壁をぶち抜いたんです。ホコリと共に現れたのは、30×90の間柱です。床梁と土台に機能していない仕口がありました。2階の踊り場の下ということもあり、設計上は105角のしっかりとした柱が必要そうな雰囲気。釘の打ち損ないも、歪んだまま打ち込んでいるし、35年前の建て売りはまったくひどい。ジャッキアップして柱を交換しました。見えないところで手を抜いてしまう人の気持ちとは?何かがそうさせています。この例では、「お金と○○」のところに、「労働」という言葉が入りそうです。

(余談ですけど、長男がつい最近、ねずみばあさん(※1)がトイレに出た!といってパニクっていました。うちの奥さんが、「お父さんが押入をぶち抜いたから、ねずみばあさんは出ないよ。大丈夫。」と慰めてました。ばあさん、押入からトイレに移動した?)

もうひとつの事例。
テレビで、松山大学のサービス産業論の講義をK-1で活躍したニコラス・ペタスさんが行っていました。ペタスさんは、かつて2種類の道場を持っていて、一方は、純粋に格闘技を楽しめる自分の名前を冠した道場、もう一方は、自分の名前を付けないジムでした。どちらもやっている事は同じですが、純粋に格闘技を楽しむ道場は、商売として成り立ちにくいらしいです。なぜかというと、ペタスさんに憧れて入った生徒達とはいえ、練習が厳しいので、少数の生徒しか続けられないから。 一方、自分の名前を付けないでプロデユースしているジムは、自分で直接指導しなくても、選んだインストラクターが指導すれば商売としては成り立つそうです。ですから、事業を拡大しやすいですね。ペタスさんは、格闘技を商売にしたくなかったので、きつい練習が好きなメンバーがいる、自分の名前を付けた道場を続けることにしたそうです。好きな事を仕事にすると、お金と好きな事を天秤にかけざるを得ない時期が来るのですね。この例では、「お金と○○」のところに、「やりがい」という言葉が入りそうです。

おっちゃんから一言いわせていただくと、夢があるなら突き進め!ですね。ながながと書いて、結局は南さんのご意見に賛成です(笑)。夢を見て、実現して、現実を見て、それからなんとかすればいいと思いますね。っと、自分に言い聞かしてます(笑)。

ところで、8/21に愛媛県今治市で伊東豊雄さんと日比野克彦さんによるトークセッションがあり、参加してきました。(面白かった〜。)もちろん、最後は伊東さんのサイン会。それで、ふと思ったんです。伊東さんのサインが欲しいと思っている自分・・・。お会いしたこともなかったので最初から伊東さん自身に憧れる訳ではないんですね。伊東さんがつくる建築に憧れてから伊東さんに憧れるんです。伊東さんに握手と写真を求めて、はしゃぐ親子もいます。すごいな〜。作家というのは、建築家というのは、ファンが存在する職業なんですね。お金を稼いでいるだけの人だったら、僕はサインを求めないでしょう。

※1ねずみばあさん 絵本『おしいれのぼうけん』に登場する、ねずみ使いのおばあさん。押入の中に潜んでいて、園児達から恐れられている。

・関連項目
テーマ討議 お金と建築

震災で思う事

出演者:武智仁志


プレートがぶつかり合う日本において、災害に気をつかえない生き方はかなり危険だと認識させられた今回の震災。
かつて、同じ地に津波が来てつらい目にあったのに、なぜ同じ土地に人々が住まなくてはならなかったのかという疑問があります。人間は、地球上で賢い動物と思い込んでいましたが、争い事の結果や、自然災害に対する経験を生かしきれない歴史をみると、そうでもないもんだと感じずにはいられません。

なにが原因なんだろう。

やっぱり、現代人の価値観が狂ってきているのでしょうか。すべては「お金」です。いや、大事な存在だし、ブツブツ交換を立替えてくれる便利なしくみなのは理解できます。でも、ほとんどの人は、これをより多く得るために、寝る間も惜しんで働いています。電気は便利です。暗くなっても働けますから。各個人の意識はそうではないと言う人もいるでしょう。でも、企業の基本は、儲ける事。前年度と比べていくら儲けたかに腐心しています。やっぱり、このしくみに取り憑かれています。従業員がより良い生活を送れるようにと呪文を唱えながら。

いや待てよ、と思わされたのが、災害の度に建てられる「仮設住宅」。早ければいいんです。お金がかからないから。でも、仮設住宅に入っている自分を想像すると、状況がよくなっていると諸手を挙げて喜べないと思います。家を失った野宿同然の環境と、見慣れた生活環境に似た仮設住宅を比べると、そりゃあ、外からみると改善しているように見えます。

でも、それは、支援者側が一段落つけるための手段に過ぎない。俺はやったよ、良いことをしたよと言い聞かせるために。仮設住宅に住む事になった方たちは、ふるさとを失い、家族も失い、住む家や仕事がないから、またローンを組んであくせくと働かざるを得ない。国は助けると言いますが、結果的に税金をあげる方法しか思いつかない。いや、国も大変な事は分かります。助け合わなければ良くならないことも分かります。

言いたい事は、お金が基準になって、安易な手段をとりやすい体質になっているような気がするんです。日本は。

住まいって、そもそも、他人に任せっきりで建てていいもんなのかなあと思います。建築を目指している僕が言うのもなんですが、住宅メーカーや、建築家に自分の住まいを任せっきりでいいのだろうかと。しかも、ローンというお金を吸い取る掃除機のようなしくみで当たり前に購入をします。で、ローンを返し終わる頃には、体は老いで動けなくなり、家もボロボロ。他人に建ててもらったから、なにをどうさわれば家を修理できるかが分からない。で、また専門家に頼んでお金を払う。でも、働ける年齢を過ぎているから、まず、建て替えなどは難しかったりします。どう考えても、お金にいいように操られているとしか思えません。

じゃあ、どうすれば良いか。
これから書く事は、常識的な頭の良い方達から鼻で笑われるかもしれませんが、とにかく、思ったことを書いてみます。

かつての日本の主な住まいであった、地域の人々の技術が集結した民家。民家の作り方は、電気の消費を見直そうとしている日本のこれからの住まいに大きなヒントを与えてくれると思います。日本の環境にあった工夫の積み重ねは継承して、それを続けることでさらにより良い家になります。お金を出すのではなくて、近所の人どうしがそれぞれの知識を持ち寄って、お互い様で文字通り家をつくるのです。

今では、近所にそんなおじさん達いないでしょ。そうなんですよね。しかも、歴史的に継承していないから、もう知識がゼロになってしまっています。無理矢理やっても日曜大工の延長になってしまう。そこで、教育から見直そうという話が出てきます。人が生きていくのに住まいは、必ず必要です。なのに、専門家ではない人(ほとんどの人)は、住まいに関する知識がありません。これって、本当は異常な事ですよ。必要なのですよ、住まいは。なのに知識が一切無い。ビーバーだって、自分で家を作れます。賢すぎる人間は、効率(お金)を求めて、住まいさえも他人に委ねてしまった。

災害国日本では、建築に関する知識を義務教育から叩き込んでおく必要があると思います。たとえ、既存の建築家という職業がなくなるとしても。(家族単位の住まいは扱わなくなるというだけだと思いますが。)家をつくるのに、お金を払うのではなくて、自分が作った野菜をお裾分けするかのように、家づくりを手伝うという環境。車の免許を当たり前に取るように、建築関係の免許をとる環境。これが実現すれば、じれったい市役所の専門家の都市計画を待つ事無く、自分達で計画が立てられるし、仮設という突貫工事の手順を踏む事無く迅速に動けるようになるのではないかと思います。誤解を恐れずに言えば、本当は、自分を守れるのは自分達しかいないです。

日本国憲法第25条で、『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。』と言っています。でも、実際は、ある程度は補助するけど、もう一度ローン組んで家を買い直してねと言っています。根本的な生活を営むのに必要な家を自分達の手でつくりあげることが出来なくなっている国民は、実は、お金を生み出す道具と化しているかのようです。家電頼みの生活もそうです。結局は、高気密、高断熱と繰り返し脳裏にすり込まれていて、電気が絶対必要な生活の仕方が当たり前だと植え付けられているのです。少し前まで、冷蔵庫さえも電気レスでしたからね。地震国日本は、たった一つの手段を持つのではなく、あらゆる他の手段も用意しておくべきでしょう。

被災地の方は、市や県の計画を待つのはじれったくて、自力で危険な地域に店を再会させた方も多くいると、報道で聞きました。知識があれば、正確な判断と行動力が伴うのではないか、近所で助け合える環境になりやすいのではないかと考えます。自分達で行動ができるようになれば、家の再ローン問題と、無職状態の問題がある程度改善されると思います。しかも、消滅しつつある近所付き合いも、普段から協力し合うことで復活します。やっぱりおかしいんですよ、仕事に忙殺されて、家族と一緒にいられなかったり、ご近所とも付き合いができないなんて。電気不足問題も、「夜は暗いから仕事はできない」という当たり前の日常になれば、自殺者の問題も減るかもしれません。これら、書いていることは、大げさに希望的観測に寄っていっているかもしれません。でも、お金の価値以外の価値を認めて、実践できる社会が実現できたら、なんだか幸せそうな気がするのです。いい歳のおっさんがこんな事を考えるのは、あまいですか?

考えるだけでは、ただの思考ゲームでしかないですが、いつの日か行動を起こせるよう様々な準備をすることは大切ではないかと思います。お金と本質を、まずは分けて考えてみるとよりよい答えが返ってくるかもしれませんね。

皆さんは、今回の震災でどのような事を考えられましたか?
出演者:武智仁志

東日本大震災により被災された皆様に、心よりお見舞いを申し上げます。そして、現場で救助や復興に尽力されている方々に感謝いたします。

本当に驚くべき事実にただ呆然としています。僕が経験した地震で最大のものは、2001年の芸予地震です。松山市で震度5強、M6.7。発生は15時27分で、夜の飲み会に備えて、自分の部屋にいました。当時90cmの水槽を部屋に置いていましたが、水が大量にあふれました。とっさに部屋の真ん中でバランスを取れました・・。

今回は芸予地震並みの規模のものが連続でおき、津波の被害も大で、あってはならない原発の事故までも。3/11から、2週間が経ちました。今だに余震もあり、原発もあまりよくない状況が続いている中で、今の僕にできることは、募金をすることくらいしか出来ません。

愛媛にも原発があり、MOX燃料を、やはり3号機で使用しています。事故が起こってからしか本当に危機感を持てない自分に呆れます。

僕が住んでいる松山でも、一部のスタンドでガソリン給油の規制が始まり、なんと、インスタント食品やミネラルウォータ、乾電池なども品薄の状態となっているようです。(中国にも、買い占めは飛び火しているそうです。)先週はそういう雰囲気はなかったのですが、原発事故の対応が長引いているのと、ついついテレビを長く見てしまっているからでしょう。愛媛でも、「共感疲労」に陥っている人がいるそうです。被災していない人間が疲弊している場合じゃないです。品薄の原因は、被災地優先で供給されているためで、一時的らしいのですが、もし買いだめしている結果ならば残念です。日本人は同じ民族で集まっているせいか、集団心理が強いのですね。

水は水道水が使えるし、インスタント食品は無理に食べなくても済むし、僕の場合は自転車で通勤しているのでガソリンも殆ど不要です。身の回りのできることからやっていこうと思います。当たり前の日常って、実は貴重ですね。ついつい明日があると思って過ごしてしまっています。

ラジオでは、地震の影響よりも津波と原発の話題が多くでました。昼間の災害ということで、多くの映像が撮られ、津波の無情なパワーを見せつけられました。愛媛新聞によると、大津波警報発表の3分前に小規模な津波第1波を宮城県・牡鹿半島周辺で観測していたようです。3メートル以上の最大波がきたのはその30〜40分後でした。ハードウェアは駄目でも、人間の命は助かる時間だったかもしれませんね。ただ、警告を受けて、パニックを避けられるかどうかは分かりません。

驚愕したのが、岩手県の宮古市田老地区の防潮堤。住民の皆さんから絶大な信頼を得ていた「万里の長城」の異名をもつ高さ10m、総延長2400mの防潮堤を、大津波は粉々に破壊したそうです。約50年前に完成していたので、塩害による老朽化も多少は原因としてあったかもしれません。防潮堤の中身は土壌でしょうし。本当に恐ろしいパワーです・・。

こういった事実を見ていくと、常識的な対処で新たに建て直しても、また何十年後かに津波が起こるかもしれません。事実、常識や想定を越えた災害が発生してしまいました。役所の建物は、海抜何m以上に建設するという規則ができるかもしれません。

僕は建築を学んでいるので、つい建築の力のみで解決できると信じたくなりますが、彦坂さんがおっしゃるように事実を事実と認識して、対応するほうがより確実だと思いました。携帯やラジオ、テレビよりも、ツイッターが役に立ったように、複合的な手段を確保しておかないと、突然の事態に対処できないですね・・。

ラジオでの皆さんの会話を聞いていて、頭に浮かんだのがテトラポット。田老地区の防潮堤は堅牢な「面」で波を遮る発想でしたが、テトラポットのように「ある程度」遮る発想のほうが良いのかなと思います。波を砕く手法ですね。そして、海岸で砕くばかりではなく、数km先の海上にも配置するのです。水深があると大変ですね。専門知識でもって語っていないので、知識のある方に笑われるかもしれませんが。

陸地に侵入してきた水は、住戸を取り巻く道路の下が水路になっていて、ある程度、水路に水が流れ込んで力を弱める作戦。そして、建築はあえて、木造。逆に浮力を利用して、基礎との関係は、切り離しやすいものにします。電柱などの危険因子は地中化。車は住宅街には置かず、歩行と路面電車で移動するようにすると、流されてもぶつかるものが少なくできるかもしれません。複合的に建築と土木を組み合わせないと難しい気が今はしています。都市規模でのデザインです。基礎部分はテトラポットのようなものを敷き詰めておくと引き潮を砕いてくれるかも・・。躯体は結局、船みたいな建築になるのでしょうか。

いやいやいや、なかなか解決策を見つけるのは至難の技です。構造形式、形態の話以外のところでもデザインの方法はないかという松田さんのお話。建築的な内容のみで考えず、様々な可能性を拾い上げて解決していくしかなさそうですね。

それにしても、ツイッターの活躍ぶりはすごいですね。
早く問題が解決できるように、行動していければなと思います。
僕はこれからの日本に希望をもって生きます。

・関連項目
東日本大震災を、現在進行形で考える [1/3]──地震と建築をめぐって
東日本大震災を、現在進行形で考える [2/3]──原発とアートをめぐって
東日本大震災を、現在進行形で考える [3/3]──津波とデザインをめぐって
出演者:武智仁志

京都造形芸術大学のみなさん、お久しぶりでございます。皆さんの声を聞きますと、人生2度目の腹が引き締まるおもいです。

あっ、お忘れでしょうか。「あんた誰?」と言われても仕方が無いほどご無沙汰しております。スクーリングは、2007年を最後に受講していないので、あれからはや4年目になります・・。トータルでいと・・やっやばい、後がないっ!丁度、岸川先生が着任された時期に3年次の課題にチャレンジしていた時期です。ぐおおお〜、なにやってんの?僕は。

建築学生の約4/5が卒業できていないということで、働きながら勉強する無謀さを実感しております。その他大勢の中に入っているのですね・・・。あっ、でも楽しいんですよ。模型作り、図面作成、アイデアを発見する一連の作業は楽しすぎます。

私事で恐縮ですが、僕の入学動機は、企業に安月給でこき使われて(会社の人見てないよね・・・。)シワシワになったら捨てられる将来に不安を感じたのと、給料が良い職種を31歳の時にネットでしらべたら建築士がヒットしたからです。(あれ?入学志望時の作文と違うかも・・。不純な動機ですね。でも、スクーリングの時にある先生から「建築家はもうからんぞ」と言われました。そ、そんな〜。建築士と建築家の違い?)ラジオに出演された優秀な卒業生の皆さんのようなドラマチックな野望はありませんでした。安藤忠雄さんすら知らなかったんです。でも、やっているうちに楽しくてハマったのですが、続けられるかどうかは、個人の強固な意思はもちろんですが、やっぱり一緒に頑張っていける仲間でしょう。スクーリングに行かなければ、この重要な機動力の源が薄れてしまいます。建築系ラジオの皆さんに、まだ相手にしていただいているので続いているような状況です。こう見えても、学校にも建築系ラジオにも感謝しています。歳をとると新しい事にチャレンジすることが難しいと思い込んでしまう日本の世の中で、そうではないよと手を差し伸べていただいています。ただ、自分のコントロールが悪くて、その手をなかなかつかめないのですが(苦笑)。

全国から老若男女が集う大学で学ばせていただいていますと、「なにかを始めるのに遅いということはない」と改めて思う次第です。皆さん、もうパワフルでして、僕なんかは亀の競歩ぐらいのスピードですが、同期で一緒に勉強させていただいた一級建築士の方は、1年で50数単位を取得しました。すごすぎます。すでに資格を持っておられるのに、新たに学び直そうという姿勢に、また刺激を受けます。

アメリカからスクーリングに来られている日本人の方もいまして、日本で仕事があるタイミングの時に受けているそうです。アメリカにはなかなかこういった学校はないそうです。入学理由は不明ですが、AAスクールですでに学ばれた方もいまして、最初から突出していました。もちろん、さっさと卒業されて、しかも最優秀賞を取っています。世の中には無名や有名を問わず、すごい人がたくさんいて、憧れるばかりです。

ただ、自分が勝手に陥った状況を悲観的にみて終わるのではなく、遠回りを楽しめる胆力(?)が養われているのかなあ、などとのんきなことを考えたりもします。ゆっくり学んでいると、僕の大学生活の裏テーマは、人間的に成長するのが目的だったのかなと思うようになりました。赤面症でも人前でプレゼンするという、相手に伝える能力が少しづつ鍛えられているような気がします。目先の目標も大切ですが、気が付かないうちに学んでいる成果が表れているのかも。あれ?、妻が呆れています・・。怒りを通り越してる・・・。

おっ、大学院って実務経験に沿って学べるんですね。この歳になると、雇ってはもらえないかもしれないので、いきなり独立も夢ではない?うお〜、厳しそう〜!いばらの道しか見えなくなってきてますが、昨日買った『ブリコラージュの伝言』を読んで、頑張ろうっと。

先生方、またお会いできるように頑張りたいと思います。よろしくお願いいたします!

・関連項目
建築系ラジオインタビュー
通信で建築を学ぶこと [1/2]──京都造形芸術大学通信教育部建築デザインコース教員インタビュー

建築系ラジオインタビュー
通信で建築を学ぶこと [2/2]──京都造形芸術大学で通信教育を受けた学生が、その経験を語る

出演者:武智仁志

僕は、使えない新番組の提案を何度かさせていただいたことがあります。中田千彦さんは、いとも簡単に企画を通してしまいました。それもそのはず、ご提案の「しりとり」は、誰でも、簡単に、建築系ラジオメンバーが活き活きとする飲み会の席でも楽しめる遊びだからです。

山崎泰寛さんのインタビュー(「建築外からのモチベーション 保健室から建築へ」)でも、建築の教育について語っておられましたが、このしりとりは教育に使えるんではないでしょうか。

大人には、知識のバロメーターとして使えるし、子供でも楽しめますね。よく、テレビであるじゃないですか、小学生なのに日本全国の鉄道の路線を順番に言える子。または、世界の国旗や首都を全て言い当てる子。大人も感心する程の知識量ですよね。

ただ、問題は、子供が建築に興味を持てるか?です。ちなみに平凡なうちの子は、某テレビ局のリフォーム番組の破壊シーンは大好きなのですが、奇麗になったお家には興味がないようです(笑)。興味がないと言っても現実の体験として、冷やかし(?)で内覧会にいっしょに行くとすごく喜ぶんです。体験を伴わない映像で見るとつまらないようです。

かっこいいお家か、かわいいお家なら、映像だけでも子供心にズキューン!と響くはず。どんなお家が好きでしょう。そういうお家って、多分、分かりやすいフォームを持っているんでしょうね。ロボットみたいとか、ハートマークみたいとか。

うーん、考えてみると、ロボットはロボットだし、ハートマークは、ハートだし、電車も電車だし、他の何かに例えて表現する必要はない存在ですね。お家も、いわゆる家型であれば、何かに例えて表現する必要もないですが、そうではない場合は、何かを参照して語りたくなります。「何々みたい〜」って。

建築らしいフォームってありますかね。
だれでも、ピンっ!とくるフォームがある方が良いのか、そうではないのか・・・。今、定着している家型が、定着する前って、やっぱりアイコン的な姿として認識されていたのでしょうか。自動車は機能美であの形が定着しているし、バイクもしかり。雨を凌ぐ形として、家型は合理的ですよね。自動車もバイクも使う人と「一緒に移動する」という感情を持たせますね。ガンダムの人気も、人型であるので「手足を機能的に強化したような」感覚があって感情移入しやすいのではないかと思います。自分の分身のような。モビルスーツって言いますもんね。対して今の建築は、建築の内部を移動しているので、他者的な感覚が強くて、自分の体の一部のような感覚が少ないですね。

他人のような感覚を住まいに抱いてしまうのは、住む人がどれだけ建築をつくる時に関われたかが影響ある気がします。頭だけで考えた行動とくらべると、自分の手から得た情報を元に行動した方が感覚を総動員しやすく、思い入れが深くなりますよね。

住宅の言葉のイメージと「建築」という言葉へのイメージって、なんだか違うような気がします。住宅や住居というと、一般的にも身近な存在として意識しやすいのですが、建築という言葉だと遠い世界の存在とか、気難しい存在というイメージを僕は漠然と持っていました。建築と住宅は違うと言う方もいますが、集合体として見ると建築なのでしょうか。集合体でみると「都市」という呼び方になりますか?もし、自分がコントロールできる許容範囲の大きさや周辺に与える影響度が基準であれば、住宅も十分建築と言えると思います。個体で見ずに集合体で見ると意識が違ってきますかね。新築にしても様々な部品を組み立てて全体ができていますから、住宅も地域や都市の部品でしょうか。

建築への関心と、ロボットや車への興味度合いが違うのは、世の中に浸透したコレクター魂をくすぐるフォームが思い浮かぶかどうかに左右されているように思います。この辺の感覚が、建築に対する一般的な興味との関連性があるような気がします。

だいぶ脱線してしまいました。
子供達がもし、コルビュジェだの、篠原一男だのと、しりとり遊びを始めたら、すごいですよ、多分。決勝戦ともなると、テニスのウィンブルドン選手権のように、周りの大人達は、一斉に左の子を見たり、右の子を見たりで、激しいリターンの応酬が展開されそうですね(笑)。こうして建築界は、安泰だあ!

・関連項目
44A: 宮城「建築系しりとり」選手権
出演者:武智仁志

 建築家なのに不動産会社を立ち上げて新しい住まい方を自ら実践されているということで、気になって購入しました。

早速、帯を開きました。
著者の馬場さんが将来描いている房総のにぎわいが描かれていて、馬場さんの野望が伝わりました(笑)。現在の電子媒体では味わえない本の楽しみ方ですね。馬場さんのワクワク感が伝わるようです。

文章も堅苦しくなく、知らなかったことは素直に表現されていて、読者の共感を得やすいと思います。一気に読めました。「気が付いてしまった。」という表現が先取り感を強調していて、なぜか、「先にやられた!」と思ってしまいます。でも、行動力が違い過ぎるので思うだけですけど。

プランを説明するために、赤裸裸な自分の半生の記録を解説するところを読んで、馬場さんは、建築家の中の建築家だな〜!と思いました。家族の歴史を空間にするという意気込みが、これから住居を持とうという人に伝わりそうで、読者は皆、馬場さんに設計を依頼するんじゃないかと思いました。

建築家が設計した物件への支払い方法も書かれていて、勉強になりました。なるほど、資金繰りでつまずいてほとんどの人がメーカーに走るわけですね。建築を勉強してるから思うんでしょうけど、なぜ、皆はつまらないメーカーの家を購入するのだろうと不思議でした。資金に関する悩みが、実は住む人にとっては大きな問題ですね。銀行に聞くと、3千万円のフルローンを組む人も少なくないらしいです。そうなると、メーカー住宅になってしまいますね。

「住宅金融支援機構」は支援してくれないし、「住宅ローン減税」も、耐火建築物でない建物は築20年以内の物件か.購入2年以内の耐震基準適合証明書または、耐震等級が等級1〜3であることを証明している住宅性能評価書が必要なんですよね。耐火建築物は25年以内。木造とそれ以外の5年の差も、意味不明ですけど中古物件の購入は減税対象にならないんです・・・。世の中は、購入者が損するしくみになっていますね。まあ、金がないのに買う行為が本当は怖いことなんですけど。

そのうち、馬場さんは銀行も始めてしまうのではないかと思う程に、「なにかやる人」という印象を持ちました。馬場さんの新しい住まい方の提案は、多くの都会人に受け入れられると断言できます。僕も都会に住んでいたら、馬場さんにお世話になっていると思います。

(思ひ出のコメントー初出:2009.4.9)

・関連項目
南洋堂店主荒田哲史の「今月の一押し本!」
馬場正尊『「新しい郊外」の家』(太田出版)
出演者:武智仁志

僕がテン年代の建築に求めるものは、「つながる」というキーワードです。僕らは、閉じられた空間を求めて、そんな場所に安らぎがあると信じてきました。でも、内にこもる程に、外部に対して攻撃的になっているような気がします。安全な場所に居ながら、ミサイルのスイッチを押しているような人が増えていると言えます。ネットの匿名や、自動車の動く閉空間、家に帰っても個室にこもれる環境があります。パソコンのデスクトップも私的な空間です。唯一団らんできる食卓も、仕事による家族のすれ違いで広すぎる場所になってしまいました。

ある自動車のテレビコマーシャルに衝撃を受けました。そのセリフが、「家にいるより、家族だね。」ですよ。住宅内では家族関係が営まれていないということに共感できる人達が多くいるということです。世の中にアンテナを張り巡らせている車会社の経営陣は皆の認識が一致して、このフレーズでいけると判断したのですから。

プライベートな空間を大切にしすぎて、それに対する後付けで、クーラーなどの住宅内気候をつくり出す装置が、もてはやされています。この装置頼みの精神を変えないと「つながる」というキーワードに行き着けないと思います。築33年の中古住宅を購入して、夏の汗をぬぐうそよ風や、冬のすきま風を感じながら生活していると、日本の四季や、気候に旬があることに気づきます(笑)。梅雨時期のキス、秋の焼きサンマ、冬のブリの照り焼きなど、旬の魚は美味しいですよね。旬の野菜や果物も、口に入れたとたんに幸せが広がります(笑)。そんな感じで、外の四季を「見る」だけではなくて、「体感」して楽しんでもいいんじゃないかなと思うようになりました。
ただ、僕が住んでいる松山の気候だからこそですけど・・。

建築内の気候にアバウトになることによって、境界の質が変えられると思います。「つながる」というキーワードは、境界がどうなっているかが大きいのですが、ライザー+ウメモトさんのメッシュ構造とか、中村竜治さんの「すかすかなもの」に可能性を感じます。線の集積によってつくられている面をそのまま境界につかえば、ガラスに頼らない、新しい境界のありかたも可能ではないでしょうか。ただ、暑さ寒さに耐えろということではなくて、境界(天井・床・壁)を見直す事で次の世代の建築が見えてくるような気がします。

そうやって新しい境界の答が出たとき、1戸建て住宅や集合住宅というジャンルを超えて、ついでに敷地境界線も超えて、新しく「つながる」建築ができてくると思っています。既存の住宅の境界を変えてつなげると新築よりも可能性があるかもしれません。結局、人は一人では絶対に生きて行けませんからね。誰かと、つながっていたいです。

(思ひ出のコメントー初出:2010.3.5)
出演者:武智仁志

新年、あけましておめでとうございます!
本年も、楽しく建築を学べるよう、よろしくお願いいたします。

新年、一発目は、己に克つ!というテーマで自分を見つめ直してみようと思います。(新年早々、堅い・・。)建築系ラジオのみなさんのご好意によって、本コーナーがスタートし、今日までなんとか続けてこれたのですが、ここらで、このコーナーの原点に、もう一度立ってみようと思います。

■ラジオの親近感

さて、建築学生たるもの、タイトルは表現の中身を表していないとマズいです。プレゼンしにくいです。そこで、今回は、どうしてこういうタイトルになったかを誰も聞いてくれないので、勝手に語りたいと思います。要するに、僕の息抜きです(笑)。

松田達さんと大西麻貴さんは、僕が通っている大学の先生です。(お会いしたことはないのです・・。)ですから、先生とお呼びしなければなりませんが、学校の外では、先生と呼ばれるのがあまり好きではないのではないかなと思います。様々な人にインタビューして、ラジオを一般の人達にも発信するには、先生だとやりづらいのではと。まあ僕の個人的な価値感を押し付けていると言われればそれまでなんですけどね。ですから、このコーナーでは、何々先生とお呼びしたいのをグッと我慢して、普通に何々さんと、お呼びしています。その方が、親近感がありますもんね。

親近感といえば、ラジオって、テレビと比べてずーっと自分の生活に密着している感じってありませんか?いつかの配信で確か杉浦さんがおっしゃっていましたけど、ラジオって「ながら聞き」ができるんです。

動物に例えると、テレビが犬で、ラジオが猫とでも言えますかね?
あっ、違う。
テレビを見ている僕は犬で、ラジオを聞いている僕は猫ですね。テレビを見ている時は、何から何までつきっきりで、他にやる事があってもほったらかして忠誠を示して見ています。対してラジオは、やりたいことをメインにやって、ついでに聞いてしまおうという欲張りな態度でいられます。お得感と「気ままさ」がラジオの良いところでしょうか。

■見えないのに見えている!?

映像がないということがながら聞きができるポイントなんですが、「声」ってすごいですね。声を聞くと、声優さんではないかぎり、まず性別が分かります。精度は悪いですがだいたいの年齢も分かりますね。あと、顔が浮かんでくるんです。不思議ですよねー。もちろんお会いしたこともない人でも顔が浮かんできますよね。

声から想像する顔って十人十色で、皆さんが想像した、それぞれの顔を見てみたいものです。
で、その中の顔から好みのものを選んで、自分の顔にできるシステム(笑)。皆に好かれたい人は、一番多い系統の顔を選ぶとか、モテたい人は男前や美女を選べる。いいですねー。福山雅治さんの顔の人生って、どうなんでしょうか?モテてモテて、もううんざり!って人生なのでしょうか?(笑)いや〜、こんなアホなことが現実になったら、男は皆、福山雅治さんだらけで逆に気持ちわるかったりして!もう、こうなると、見た目のファサードなんかは重要ではなくて、世の中の女の子達は男の中身を重視するようになってくれるかもっ。

■新?住宅論

おお〜、日本の住宅状況は、もしかして男前だらけなんじゃないでしょうか。すごいことに気が付きました!高気密・高断熱でプライベート空間を大切にした至れり尽くせりの住宅を皆が求めていて、インテリアが人気ですもんね。

時代によっては、男前の顔は違っているんですよね。口ひげが長い方がカッコいいとか。男前の基準も、実は多数決なんでしょうね。より多くの人が男前だと思っている顔が男前だと、皆思っているでしょう?
いやまて、そうじゃないと。
男前はこうだ!と声高らかに言う変った人間が増えれば、ある時、男前の定義が変っていると。

最近では、中性的な雰囲気を出す男が男前と呼ばれている事も。子供とゴレンジャーシリーズの何とかレンジャーを見ていたら、レッド役が、なんだか中性的なんです。ゴレンジャーのレッドと言えば、頼りがいのありそうな男前が当たり前だったと思います。それが、あたりさわりのない態度を取るキャラがメインなんです。スーパーマンは、近いものがあったのですが、「押して忍ぶ」雰囲気であって、中性的とはまた違う雰囲気でした。やるときゃやるってとこは似てますが。話がまた飛びますが、今時の小学校って学級委員がいないらしいんです。皆、平等〜とか言ってるんですかね?・・・。ああ〜、僕はいつまでも流行の男前を否定できる新しい男前でいたい!(でも、ましゃは悔しいけどカッコいい。)

〜こんなことを考えた後日〜
僕の嫁さんに、「日本の住宅は男前だらけ論」を話したら、「なに言ってるの!日本のは男前じゃないでしょ。色も形もバラバラであっち向き、こっち向きして汚いじゃない。西洋の街並を見てご覧なさい。色や形や向きがそろっていて奇麗じゃない。福山雅治だらけで気持ち悪くなるはずがないっ!」と、一喝されました・・・。群として見るとは。視点が都市計画的。実際にローマや、その他色々な国に旅行に行ってるんですよね。僕は行った事がないのに・・・。でもねっ、福山雅治さんが沢山いて、「はいっ、皆さんこっち向いて〜」って言われて、向くと思います?ものわかりが良い男は、男前と呼べるのか?男前って、こだわりが強そうだべ?・・・って心の中で反論しました(笑)。

■やっと、コンセプトのお話

え〜っと、何の話でしたっけ?
あっ、そうそう、コーナータイトルのコンセプトでしたね。危うく忘れるところでした。(笑)

僕が建築系ラジオを聞いているシチュエーションはと言いますと、通勤中です。パソコンの前でかしこまって聞くというより、通勤し「ながら」聞いています。ipodから聴こえてくる建築系の方々は、人生経験でも、生き様でも、知識でも僕より何億倍上の存在の方々です。面識もない皆さんを直接友達とは、もちろん呼べませんが、いつも携えているipodから聴こえてくる「声」は、通勤途中の僕を楽しませ、励まし、退屈させません。

小学、中学、高校と、友達と一緒に通学したことがある人は多いと思います。そんな感じで、ipodから聴こえてくる「声」を友と呼ぶ事にしました(笑)。すごく人生の糧になる声は、友と言っても過言ではないかもしれません。実在の友達はいないのか?と突っ込まれそうですが、それはそれとして、声を発するipodを友と呼ぶ・・・それじゃ寂しすぎるので、声の存在そのものを「友」と呼ぶことにしました。ですから、タイトルは、「ラジオのお共」ではなく、「ラヂオは友」です。

ラジオって今ならまだレトロなイメージというかアナログで、放送局の周波数をダイヤルをまわして合わさなくてはいけないイメージがあって、奇麗な音ではないんだけど、安心するような懐かしいような言葉の響きがあります。ラジオの「ジ」が「ヂ」なのは、そんな古いイメージを想起させるような、あまりガツガツしていない雰囲気のブログにできたらいいなという気持ちがあって名付けました。あっ、でも、いちいちコメントするのって、ガツガツしてるってこと??

そんなわけで、タイトルの理由をこじつけてみました(笑)。
ぷふぁっ!息抜きになってないじゃん。長い。

それでは、このコーナーを最後まで読む暇がある、そこのあなたっ!
時間を惜しんで、建築系ラジオを聞きましょう(笑)。
出演者:武智仁志

山田さんが、あがり症だとは!!
ラジオから受ける印象では、まさかそんなことがあろうとは思いもよりませんでした。

それにしても、村上さんの鮮やかな分析、相変わらずの切れ味ですね。
医者か弁護士か建築家かで進路に悩んだというエピソードが思い出されます。瞬時に分析できる能力は建築活動にも多いに役立っていることでしょう。しかも、緊張されないと言います。しかも、声が良い。

実は、僕もあがり症です・・・。
文章では、ペチャクチャとよくしゃべりますが、人前だと、足がガクガク、目はうつろ、息苦しくなって、心臓がバクバクします。しかも、声が震えてきます(笑)。下唇がブルブル。そして、顔がタコのように真っ赤になります。どうしようもないくらいの、あがり症です。これは、遺伝でもあります。山田さんは、声が震えないので、まだ重症ではないですね。

村上さんの分析を聞いて、僕も当てはまることに気が付きました。必要以上に気にするんですよね。周りはどんな風にみているのだろうと気にしてます。気にしすぎて被害妄想気味です。山田さんとのあがり症の根源の違いを見てみると、僕は、山田さんのように、突然のハプニングに耐えることができません。

高校生の時にエレキギターをチューニングしていて、引っ張りすぎて弦が切れて、左手中指の第一関節の丁度、隙間のところに切れた弦が刺さったことがあります(笑)。丁度、関節のど真ん中だったせいか、痛みがあまり感じられなかったので、「見てみて、刺さった!」と自慢げに周りのメンバーに見せました(笑)。弦を引っ張ったら、なかなか硬くて抜けにくかったので焦りましたが、山田さんのように痛い目にあったにも関わらず、黙って処置することはできませんでした。さすが、男、山田幸司。男は黙って耐えるべきなんですね(笑)!

痛い目にあった時の対応方法は違うのですが、同じあがり症です・・・。僕も、「お選択」が必要です。そうですよね、他人の目を気にしても仕方がないですね。普段、マスコミの情報に囲まれて、それに頼って生活しているということも理由の一つでしょうか。あっ、いや、人のせいにしても・・・。遺伝だし(笑)。

あー、でも、良く効くおまじないってないのでしょうか。僕もいつか卒業すると思うのですけど、卒業プレゼンは尋常じゃない程に緊張するんでしょうね・・・。あー、他人の目が気になります。お〜、想像するだけで緊張してきました。ブルブル(笑)。その時は、山田さん、見守っていてください。いや、お会いしたこともないのに見守っていただこうというのはガツガツしてますね・・・。あがり症の山田さんにみられていると考えると余計にあがりそうですね・・・。
だれか〜、良く効くおまじないを、ぜひっ!

・関連項目
48C: 村上兄ィの建築系人生相談「山田幸司」
出演者:武智仁志

「からまりしろ」という不思議な言葉。
どういうことか、分析するために(笑)、言葉を分解してみますと「からまる」と「しろ」になります。

■「からまる」
「からまる」から連想する形状を考えてみますと、壁のような面積が大きい断面をもつ形状よりも、小さな細い糸のような形状を思い起こせます。(中学生時代は、釣りにハマっていましたが、よくリールがバックラッシュ(ライントラブル)してました(笑)。)断面積の大きい形状でも長ければ、からまることはできますが、断面積が小さい形状を想像するとしっくりくる言葉です。

断面積が小さい形状を想起することから、向こう側が見えない、聞こえない、匂わないなど、自然界の中で本能的に機能する感覚が遮断されるような現代の高機密高断熱の壁や床ではなく、からまっている程度によって濃淡が生まれ、からまっている要素の向こう側が見えるし、聞こえるし、匂うし、五感が刺激されそうな、既存の壁ではないものを想像しました。

■「しろ」
そして「しろ」ですが、子供の雑誌の付録でよくみかけます。そうです、「のりしろ」ですね。この、「のりしろ」を想像すると「からまりしろ」の「しろ」が分かりやすいかもしれません。

「しろ」は決して主役ではなく、主役にとっても「しろ」は表立って大切な存在ではないんですよね。主役が持っている機能を果たすために、積極的に働いているわけではないのですが、しかし、「しろ」がないと主役の存在そのものを成り立たすことができません。

■「からまりしろ」がある建築は三枚目?
こうして考えてみると、「からまりしろ」がある建築とは、必要最低限に形状や機能を削ぎ落とした鋳型で成型されたような格好よい建築ではなくて、余裕があるというか、逆に余計なものを付け足した、楽しげな建築ではないかと想像します。表面的な装飾ではなくて、余白のようなものを足すことで、他者との新しい価値観が混在できるような建築です。他者が他人であるか、新しい家族関係であるのか、植物であるのかは分かりませんが、占有空間だけを集めてできていない空間です。ある関係の集合体を建築と呼んでいるとすれば、「からまりしろ」がある建築は、もっと別次元の関係も取込んだ建築と言えるでしょうか。
(むむ〜、わけがわからなくなってきたゾ。)

いや、この解釈が平田さんの同意を得るかは怪しいですが、いろんな人のいろんな解釈を生む問いかけが良いんですよね。

松田さんの解釈が分かりやすく、AとBの関係に置き換えると少し理解が深まったような気がしました。主従の関係ではなくて、互いに対等な関係、または許容し合う関係が生まれることで、すでにある存在(風、水)を受け入れられる建築ですね。領域を独り占めしない建築。

主従の関係を保つと、主の方に従が頼るわけですから、ある条件が満たされた時に限界があるはずですね。一方、対等の関係であれば、互いに拡張性を持ち続けられる可能性があって、互いの関係の持ち方によって常識の限界を越えることも起こりうる可能性が高まりますね。

■「からまりしろ」がある建築を受け入れる心構え
どうやら、閉じきってはいない建築のような雰囲気がありますね。今までの男前建築では、わがままを言いやすかった事が、「からまりしろ」がある建築では人間が「ほんの少し我慢する」とか、「ほんの少し許容する」ということも楽しみたくなるような建築ですね。

建築内なのに、風が心地よいとか、あそこに行きたいけど雨に濡れるとか、手を伸ばせばお隣さんから醤油を貸してもらえるとか(笑)。現代人の感覚では面倒だと思う手間が、逆にこちらから手をかけたくなるような、ウルウル目のチワワのような建築かなあ。

「ほんの少し我慢すると、得られる幸福あります。」っていうのが、「からまりしろ」がある建築の特徴かもしれませんよ。

・関連項目
せんだいスクール・オブ・デザイン03
平田晃久インタビュー「建築とはからまりしろをつくることである」
出演者:武智仁志

いやいやいや。
すごいドキドキしました(笑)。

まず、僕のような凡人はいかに常識に縛られて生きているかということにあらためて気付かされました。「ラブホテル」という言葉に抱いているイメージから、勝手に危ないコンテンツだと思い込んでしまいます。なぜか触れてはならない話題のような気がしてしまって。いや、確かに状況的には安心できないですね(笑)。

ところが、聞いてみてまたビックリ!教科書には決して載っていないラブホテルのノウハウが満載でした。深いですね。何事も。経営戦略から色彩の事、土地の歴史まで、あらためて建築の面白さを教えていただいた気がします。

そして、今回初めて気が付いたのですが、デートということもあるのでしょうか、ストーリー性を感じました。話の流れが物語のように感じました。例えば、子供と一緒に絵本を読んでいると、僕が読んでいる物語の前に、ページを開いた瞬間から子供達は、もうすでにそのページのポイントを押さえた絵を見ていることになります。先が分かってしまうというのが子供の理解を深めるのかもしれませんが、それと比べて音声だけですと順番に与えられた情報を、その順番通りに処理していくことになるので、「この先どうなるのだろう」という期待というか、同時に気持ちが進行していく感覚がありました。音声だけで聞いていると、北川さんのレクチャーの影に、男女の駆け引きがあるようでないような(笑)。それがドキドキの元ですね。北川さんがよほど信頼されているのか、それとも片田江さんのキモが座っているのか。(面白そうという発言は無防備すぎるような・・おじさんは心配。)

さて、円山町のイメージは行った事の無い僕には想像できませんが、地方のラブホテルは郊外にひっそりと建っていることが多いです。車でそのまま入って、だれにも会わずに、そして車で出ていく・・。人目を忍んで、こっそり入っていく感じですね。悪い事していないのに。パトカー見て息を殺してしまうのと同じでしょうか(笑)。かつては、人気の少ない場所だったのが、いつのまにか周辺が普通の建物でにぎやかになっているパターンもありますね。都会版のセオリーに従っていないので、今でも存続しているということは、競合相手がある一定の間隔を保っているからなのでしょうか。「なぜこんな場所に?」と思わせる土地の歴史を調べると、様々な人の想いが絡み合っていてその場所をつくっているのですね。常識的な目だけで見てしまうと、表層しか見えないので見逃してしまうことって多いんだなあと思いました。

お話の中にありました、ラブホテルで多いという事件。やっぱり地方でも同じ事件が起こっているようです。閉鎖的な空間に入ると、人は多小なりとも錯乱してしまうのでしょうか。ネットの匿名も同じようなものだと思います。欲望をさらけ出しやすいのでしょうかね。

カップルに幸福感を満喫してもらいたい(=高級感)のなら、もしかすると松田達さんの中庭のような概念を使えば閉鎖性がコントロールできるかもしれませんね。閉じていながら開けるという。屋外と通じる部分があれば閉鎖性をある程度保ちながら開放的な場所にできるかもしれません。ビルだから、ずらして中庭を積んで、そのズレで外からは見えないとか・・。音の問題をどうするかですね。経営者としては、やっぱりお客さんを詰め込みたいのかなあ。でも、事件が起こるのは嫌ですね。

次はインテリアですか? 
ということは、・・・
え"〜!!


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ラヂオは友の
「でしゃばり目次」
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北川啓介の無批判的行動主義
北川啓介のもうひとつの建築設計資料集成!円山町ラブホテルデート編

00:00〜「ラブホ街の歴史をひも解くことから見えてくること」
01:56〜「あるものの需要によって」
02:30〜「国策と村人」
03:42〜「人々の町起こしの歴史」
05:35〜「ホテル名と土地名の関係」
06:31〜「怨念?」
07:27〜「経済的なお話」
08:40〜「いよいよ!?」
10:17〜「材質について」
11:42〜「リフォーム手法について」
13:06〜「料金と至福の関係」
14:58〜「ラブホ業界の効果的な構成手法」
16:13〜「料金の動向について」
16:45〜「そんなものがあるんすか!?」
17:30〜「外観からその建物の歴史を読む」
18:03〜「色についての基本」
19:56〜「基準法との関係」
20:55〜「ラブホテルで起きやすい事件とは」
21:42〜「事件の調べ方」
23:25〜「ラブホテルのリノベーション」
24:32〜「雑多な建物や街をみること」
25:49〜「片田江さんの感想」
26:39〜「次回は・・・」

(全 27:18)
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出演者:武智仁志

山田さんが、いかに皆さんに好かれていたかが伝わってきました。カリスマ学生さんと松田さんの涙声が、また、僕の心にグッときます・・・。本当に悲しいです。

でも、恒川さんのエピソードは、笑いました。
4人姉妹の真ん中に山田さんが写っている写真の、山田さんの表情が見てみたいです(笑)。お通夜の夜に、本人がいないのに笑いが取れるのは、山田さんだけでしょう。

考えてみると、男の数え年で42歳というのは、厄年なんですね。そういうのと関連付けるのは、安易すぎて嫌なんですけど、亡くなってしまうと・・・。こたつ問題でいろんな人の念を一身に背負ってしまったのでしょうか。

天内さんがおっしゃっていた冥界ラジオ。科学の進歩で、本当に、あの世の存在を確認できて、しかも通信可能になったら、聞きたいですね。あの世から発信されるものは、お金は無関係でしょうから価値感の違う配信が聞けるかもしれません。

もし、山田さんが亡くなったことを隠して配信を続けていたら、僕たちリスナーは亡くなったことに気づかずに聞いていたかもしれません。まるで、冥界ラジオのように。そのくらいラジオの声は、身近に感じられます。

話が少し変りますが、「龍馬伝」を見始めました。妻が、福山雅治の大ファンなので(おぬしもかっ!)、一緒に見る事に。龍馬の写真を見ると、もてなさそうな顔なのに、モテモテだったとか。男女問わず好かれていたという点が山田さんとダブって見えました。(山田さんは男前ですよっ!)

共通点は、多分、話の面白さです。男女問わず好かれるためには、実力があって、しかも笑いがとれるユーモアを兼ね備えていないと無理だと思うのです。山田さんは、ロンドンでも話の輪の中心になっていたという話がありましたね。笑いは国境を超えるのですねっ!時代背景を見ても、世の中が変りそうな雰囲気もあって、山田さんは龍馬のような存在だと思いました。建築の話は難しくて、しかも深刻になりがちです。山田さんの語りは、建築界が良い意味で変っていくキッカケを作ったのではないかと思います。

第2期の新メンバーが気になります。
山田さんとは違った雰囲気を出して差異性をアピールしたいところですが、コアメンバーの、松田さん、南さん、五十嵐さんの雰囲気を思うと、もう少し笑いがほしいところです(すみませんっ)。

今までの出演者から予想していくと、次の方達が候補にあがります。

・堀井義博さん
 分析力とまとめ方、プレゼンは説得力があって話に引き込まれます。簡潔なまとめが心地よい!山田さんについてのまとめも簡潔でした。映画の話も面白いです。

・北川啓介さん
 ポスト山田さんの原石のような雰囲気は持っていますが、もう少しツッコミができる方が、他のメンバーと上手くいくと思います(笑)。松田さんがより輝いて見える(聴こえる)のは、山田さんのスキのないツッコミがあってこそ(笑)。

・村上心さん
 頼れる兄貴な感じはとても良いのですが、ちょっとシブすぎな雰囲気です。おじさま好きの女性にモテモテな感じがします。

・宇野亨さん
 やっぱり、シブすぎ系です。クールすぎるような。

・杉浦久子さん
 女性メンバーとして最適でしょう。ゴレンジャーシリーズも女性が、今は二人いるようです。女性の存在が、価値感を普遍的なものにしそうですが、現在のような思い切った、クセのある配信がしにくくなるかもしれませんね。でも、南さんの突然のフリにも動揺なく、完璧に仕切れるのはすばらしかったです。
 (41Bの配信より。)

・彦坂尚嘉さん
 豊富な知識と、熱い行動力、自信に満ちた侍のようです。建築系と美術系という垣根を超えた新しい建築系ラジオに生まれ変らせていただけるような感じを受けます。ただ、侍だけに、話が堅くなりすぎてしまうような気が。

・五十嵐淳さん
 実力派なのに、ラジオから受け取る雰囲気は、冷めてもなく、熱すぎず、女性にモテるのはもちろんの事、男性からも好かれそうな雰囲気を感じました。なんだか好印象です。力みすぎていない(ように聴こえる)ところは、山田さんに通じるものを感じます。ただ単に、飲み会の席だったからでしょうか(笑)。

・タモリさん
 「ブラタモリ」、面白いです。坂道好きですよね。『建築雑誌2009.10号』を買いました(笑)。でも、ラジオに出演して頂けるかどうか・・・。

僕のツボで考えると、上記のメンバーが好みですが、もう第2期のメンバーは決まったのですよね?個人でみれば、どの方も魅力的なのですが、第1期メンバーとのからみを考えると、五十嵐淳さんはどうでしょうか?北海道ですが、収録は東京に限っていないようですし、スカイプもありますし。

もしかして、ゴレンジャーと数を合わせて、二人追加とか。妄想が膨らみますねっ!ユーモアは必要だと思います。1/18日が楽しみです。配信はいつ頃でしょうか。

山田さんの肉体はなくなりましたが、精神は引き継いでいけたらなと思います。(ラジオから読み取ることしかできませんが。)次期ラジオのさらなる発展と、皆さんのますますの御健勝をお祈りしています!

(思ひ出のコメントー初出:2010.1.11)

・関連項目
42C: 追悼 山田幸司「僕たちは、あの人の語りを決して忘れないだろう」
出演者:武智仁志

新しいコンテンツですね!本がまたまた欲しくなるようなコーナーです。

さて、建築が消費されているということはどういうことを言うのでしょう。

単純に考えれば、使い捨ての建築ということでしょうけれども、使用サイクルの長短だけでは語れないものがありますね。なぜそうなったのかを考える必要がありそうです。

大方の動物は、巣が必要で自ら巣作りをしますよね。かつての日本でも、近所の人達が手伝って茅葺き屋根を葺き替えたり、米ぬかで柱を磨いたり、専門業者に頼まなくても自らの手によってメンテナンスしていた時代もありました。うちのばあちゃんだって、じいちゃんが動いてくれないから(苦笑)自分で平屋の屋根瓦を葺き替えていたそうです。

建築が消費されるという状態に陥ったのは、どうも、お金と引き換えに建物のメンテナンスなりをやってもらおうという発想が出て来てからのように思います。

やっぱり、愛着があるかないかは大きいですよ。住居に対して車に抱く程の愛着って皆さん持っているのでしょうか?僕らの若い時代(今も若いですけど・・)は、土足厳禁やってる奴がいましたからね。今の時代は、車にさえも興味がなくなっているようですけど・・。愛車といわれる存在の車なら、自らの手で洗車します。自らの手でメンテナンスすることにより、丁寧な仕事になり、車に愛着を持つようになりますよね。

例えば自らの住居を軽く扱ってしまうというのは、こだわりや愛着がない状態ということですよね。極端に言えば雨風をしのいで寝る場所があればいいという機能重視の考え方です。ついでにメンテナンスフリーへの憧れ。面倒な事はやりたくないですからね。メンテナンスをしたくなる車とメンテナンスを他人の手に委ねたくなる住居の違いは、個人の独占率とスケールでしょうか。例え愛着があるとしても、どこかのテレビで見た家を理想の家としてしまう。

住居は一般的には、買うものになってしまっていて、不具合が見つかったらクレームは言うがメンテナンスはしませんよね。メンテナンスができなくなっています。それが当たり前になっていますよね。気が付いたらお金を出すだけの人になっています。そうか、お金出してんだから、やってよという考え方になってしまいますもんね。感謝の気持ちも薄れてしまうのは仕方がないのかもしれません。

話題に出ていた、ショッピングモールを歩いている時の自分を思い返しても、自分の存在でさえ、まわりにいる人達に消費させるための雰囲気作りに気が付かないまま参加しています。

こんな事を考えながら、五十嵐さんの翻訳を聞くと、気になりますね。昔にすがりつかず、踊るだけではなくて、自分は消費されない。そして、消費の海の対岸まで泳ぎきった、さらにその先に行く。消費者として過ごして来た人間としては、すごく困難な事に思えて来ます。いや、実際に困難な事を伊東さんは成し遂げていますね。
(南さんが伊東さんから得たその方法をおっしゃっています。簡単な答えなんですが、簡単にできないです。気になる方は聞いてね。)

消費の海の向こう側って、建築のありかただけではたどり着けない気がするんです。人のつながり方も新しく提案し、実現できないとなにも変わらない気がします。それって、果たして建築の力、プログラムや間取りのようなものだけで実現可能なのでしょうか。限定された敷地内の閉じられた建物一つで完結するだけでは、なかなか難しそうです。建築の力かあ。建築の力ってどんなものがあるのでしょう。
未完成の建築ってパワーがありそうだと思いませんか?未完成の部分に他者が入り込める余地がある気がします。サグラダ・ファミリアではないですけど。

河川敷によくコンビニのゴミが落ちています。河川敷にゴミを捨てられるという感覚は、そこは自分の領域ではないという気持ちがあるからだと思うんです。きっと、外でゴミを散らかせる人でも、自分の家ではゴミ箱にきちんと捨てているのでしょう。自分の独占的な領域でない場所はどうでもいいという感覚ですね。

戸建てで売ったり買ってきた住居への感覚が、そうさせてしまうという可能性も否定できません。個人が愛着を持てる領域を増やさない限り、建築は消費される存在のままかもしれません。専門家が思っている程、建築によって違う存在感を感じ取れる人はそんなにいないでしょう。だからこそ、軽い建築でも平気で一生をかける程の高いお金をつぎ込めるのだと思います。僕も建築に興味を持つ前は、建築の存在は気にした事がありませんでした。安藤忠雄さんの存在さえも知りませんでした。今では美術館に行っても建築にばかり気が向かうので困りますけど・・。

それにしても、伊東さんの海に例える言い回しがいいですね。はっきりとは言わないことが、逆に何だろう?と読者は考えるようになります。俳句とか短歌とか川柳とか、日本の知的で繊細な文化と通じるところがあって、一流の人は何をやっても一流なんですね。

余談ですが、消費の海を泳ぎきろうという心意気は、泳ぎ方は違いますが藤村龍至さんと似ているような気もしました。目的地は似ているのかもしれませんね。

・関連項目
声に出して読みたい建築論
伊東豊雄「消費の海に浸らずして新しい建築はない」(1989)を読む [1/2]
伊東豊雄「消費の海に浸らずして新しい建築はない」(1989)を読む [2/2]
出演者:武智仁志

■南研究室の建築デザインレビュー
いつも聞いてはいたのですが、レビュー対象の本を購入して、ラジオを聞きながら本を見るということをしたのは、今回が初めてでした。個人で「新建築」や「a+u」を買うと、高いですし本棚がすぐに埋まってしまうので、本屋で立ち読みして気に入った時に買う程度なんです。学校に行けば、毎月新しい本をそろえているのでお金をかけずに楽しめますね。学校が近い人がうらやましいですね。

本を見ながらラジオを聞くと、学生の皆さんと一緒に南さんのレクチャーを聞いているような、贅沢な時間にひたることができます。参加した学生さんの感想や、南さんのヒントを聞いていると、自分一人だけで発見したこと以外の内容に、「なるほど」とうなずいたり、それらが関連して、新しい発見ができたりと刺激されるコンテンツです。

南研究室では、収録の後に皆で聞き直して議論もするのだとか。配信された内容からさらに発展した議論が和気あいあいと繰り広げられている光景が目に浮かびます。
青春だな〜。

身近なリスナーどうしが議論して、批評が生まれて、それらが蓄積して、いつの日か建築系ラジオの全体討議なんかで生かされたりするのでしょう。そして、それぞれが社会に還元していく。つながってますね。

このコンテンツの面白さは、建築のレビューだけにとどまりません。南さんの「脱線」にも注目ですよね。「人間ってね・・」なんていう言葉も出てくるのですが、堅苦しく感じないトークで自然に聞き入ってしまいます。


■藤森さんの建築
藤森さんの建築はメルヘンチックというか、子供にも受けそうですよね。見るだけでも楽しい気分になってきます。藤森さんの著書も読みやすいですし、専門家でない方にも伝わりそうですよね。

入川亭は、目玉のおやじが出てきそうですね(笑)。
入川亭の入り口が面白く、梯子をわざわざかけないと上れなくなっています。カゴ状になっているので、にじり口のように低い姿勢で上らざるを得ません。茶室からは他の場所から見た景色と同じような景色が見えるのでしょうけれども、どうやってこの場所を決めたのかが気になります。敷地があってないような感じさえしますからね。

入川亭から降りる時は、誰かに「降ろして〜」と声をかけるのでしょうか。カゴを抜けて降りるとき、出生する姿を想像させます。簡単に行き来できないという条件が、茶室のかわいらしさと相反していて、余計に浮かんでいる感を強めていますね。

茶事は一人ではできないので、忘茶舟を含めた一連の流れが想定されているのですね。「忘茶」ですからね。
・・茶事のことを知らないまま感想を書くのは無謀です・・。こんなことなら山田さんと南さんの茶室レクチャーを聞いとけば良かった・・。この作品は台湾なので、台湾のお茶も知っていないとつくれないですね。

忘茶舟が入川亭に近づくことで、2つの茶室に関係性が生まれますね。茶事の余韻として、入川亭の存在が強調されます。竹やぶの中で浮かんでいるとはいえ、目立たない色や形をしていても、その茶室での体験が茶室の存在を引き立てそうですね。そうか、茶室が先に出来たのではなくて、茶事の余韻がカタチになっているのかもしれませんね。

一つの敷地内で計画されたそれぞれの空間は考え抜かれた結果、固定された関係になるのですが、自然の川の流れを空間の「間」に入れると、「偶然」を装った関係が生まれるんですね。湖の水量、手漕ぎの速さ、忘茶舟と入川亭との距離感。二つの茶室が複数の条件によって互いに見える角度がリアルタイムで変化するということ。同じ建築家がつくった空間が、一期一会の関係になりうるということに面白さを感じました。

そういえば、藤森さんの建築は、擬人的だなといつも感じます。
建築が生命を得て、動き出しそうなんです。友人に抱くような気軽さのようなものを持って建築を見れます。なんでしょう、藤森さんの手によってつくられているからでしょうか。一般的なコンクリートのようにきっちり「型取る」のではなく、「塗る」、「貼る」という行為でつくられているからでしょうか。「型取る」行為は両側から押さえますが、「塗る」、「貼る」行為は、片側が自由ですもんね。

僕も、お父さんの日曜大工程度に、子供と漆喰壁(漆喰もどきです)を塗ったり、台所に安物のフローリングをはったりしてますが、楽しいんですよね。木を切ったり削ったりするのが気持ちいいんですよ。やっぱり、からだ全体を動かすものづくりは楽しいですよね。その楽しさが、藤森さんの建築には宿っていて自然とにじみ出てしまうのでしょう。

・関連項目
2010年9月号デザインレビュー(新建築)
出演者:武智仁志

告知情報にもあります通り、2010年10月31日に「ダンボール茶室から考える建築とアートの可能性 産業遺産活用からのアプローチ」 公開収録があります。これに臨む前に、今回ご紹介するコンテンツを聞いていただければ、コアメンバーの、特に山田幸司さんの人となりが垣間みれるのではないかと思います。

このコンテンツは、YSSK TIMEのお二人がコアメンバーに鋭くせまるコーナーです。YSSK TIMEのお二人は、質問センスがありますね!なるほど、こんなにいつも聞いているコアメンバーの声なのに、分からないことだらけでした。とても面白い配信になったと思います。山田幸司さんが、活き活きと話している様子が浮かんできました(笑)。YSSK TIMEさんの味がよくでていると思いますので、次回の合同収録も期待しています。

どの質問も面白いですが、僕が食いついた話題をひとつ。
「美人は3日で飽きる」っていいますよね。あれって、自分の経験や思い込みからつくりあげた「美人像」が基準になるから飽きるんだと思います。フォーマットですよ。フォーマットの項目は、先が読めるんですよね。これだけ足りないとか、この項目が実際は違ってたとか・・・。具体的には、細身でスタイルが良いのがいいとか、明石屋さんまさんだと、ポニーテールが好きとか、国や時代によっては体型がふくよかな方が好まれますよね。(ちなみに、僕個人の意見では、細すぎるのは色気を感じないかと・・・。)実際には、フォーマットの規格外の方が楽しかったり、発見があったり、自分が項目に挙げられなかった事ができる人に憧れや尊敬が生まれるもんです。

山田幸司さんと梅林克さんの好みの女性像は、僕もタイプが似ています(笑)。完全一致ではなく、シャッキ!と気が強そうな女性像は共感できます。具体的には、ニュースを読んでいる時の滝川クリステルさんっ(誰も聞いてないでしょうけど、公の場でこんな事言うのは照れますね。)。あんな人が目の前で実際に動いていたら、中から別の人が出てくるのではないかと。着ぐるみじゃないかと思う程の美形です。雰囲気も美形で色気があります。僕が住んでいる街で見た事がないです(笑)。ただ、滝川さんは、お二人のタイプからは少しずれている気がしますけど。

実際におつきあいできたとしても多分、飽きるというか飽きられるというか、身の丈というものが世の中には存在しているんですよねー。フォーマットに合い過ぎると、それ以上のものを発見できない限り、飽きると思うんです。・・・強気に出過ぎました・・・(笑)。

女の人と男の人の相性って、どちらかというと反対の性格の方が問題が少ないと思うんです。どちらも、お互いのストッパー役になれるという点で。お話にも出て来たママドルにしても、旦那と二人で暴走した後は、激突しかないと思うので・・・。結婚を経験すると、ヘタしたら趣味も違う方が周りがよく見えるんじゃないかとも思って来ました。まず金がかからない(笑)。性格や趣味がまったく同じだと、それだけに、互いにはじき合うはずです。コダワリが強いだけに。あ、もちろん根本的な価値感は共通していないと行動に共感できませんよ。なにからなにまで趣味が一緒だと気疲れするということです。これから結婚を考えている方の参考になればと思います(笑)。僕は、どちらかと言うと草食系と思っているのですが、お二人は、どう見ても(聞いても)、肉食野獣系ですよね(笑)。なのに、好みのタイプが似ている・・・。っと、言う事は、実は、お二人は「隠れ草食系」なのではないですか?

さて、フォーマットという言葉で話は急に変りますが、建築をつくる時、お施主さんの要求と自分がつくりたい建築のそれぞれのフォーマットにどう折り合いをつけていくかということに悩みそうです。要求を満たすだけでは、一般的な家電となんの代り映えもないのでつまらないのですが、そこで、お施主さんの用意したフォーマットを超える提案ができるかどうかが建築家の力量を表していますよね。フォーマットを持っていれば仕事がやりやすいのでしょうけれど、機械的にこなすだけになってしまうことってないのでしょうか。でも、フォーマット通りでも美人ってやっぱり皆が好きですよね。美人を超えた美人ってなかなか居ないと思います。一度でいいから、動いている生の滝川さんを遠くからでもいいから見てみたい!(笑)
あー、そんな事で悩む前に、さっさと卒業しろと、妻の声が聞こえてきました。空耳かな?

それにしても、面白いコンテンツですね!
これを聞けば、コアメンバーの皆さんや梅林さんを身近に感じられるようになりますよ。

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ラヂオは友の
「でしゃばり目次」
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43A: 建築系ラジオ新春企画「YSSK TIMEとの合同収録」〜トップ会談〜

01:20〜「出演者の自己紹介」
02:43〜「トップ会談の副題発表!」
03:35〜「リスクをかえりみず建築系ラジオを続けるモチベーションは?」
10:16〜「今までの建築系ラジオの番組で一番印象に残っているものとは?幻の・・・」
13:30〜「それぞれの好きな食べ物は?〜パスタ問題!?〜」
16:41〜「呼びかけです」
18:00〜「YSSK TIMEと、ぽむ企画の関係!?」
20:00〜「血液型を当ててみよう!」
20:52〜「子供の頃の習い事」
21:45〜「犬派?それとも猫派?」
23:25〜「ノンジャンルで愛読書は?」
24:31〜「子供の頃のニックネーム」
25:24〜「好きなスポーツ選手」
28:05〜「男として好きな女性タレント〜脱走者問題!?〜」

(全 32:54)
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出演者:武智仁志

始まりましたね。土木系ラジオ。
今後の展開と建築系ラジオとのからみが非常に楽しみです!
建築もまだよく分かっていない僕が、土木系もと言い出すと脳みそがポンッ!(軽い音(笑))と破裂しそうなので、簡単にではありますが土木系のメモをつくってみました。

■【土木系ラジオを立ち上げたきっかけ】
雑誌に比べるとメディアのスピードが早い。
土木系はデザインの分野が本格的になっていない。
土木のデザインや景観に対して発言する場がない。
土木系学生のためにメディアが必要。
こそこそと話していたものを話し合いたい。
建築系、土木系の2つの分野が融合していける分野を見つけたい。
デザインをしない人との交流も。


■【土木系ラジオの体制】
コアメンバーは9人
四国、関西、関東とまったく交流がないので全国からメンバーを集めた。


■【土木系の特徴】
大学卒業後は大きく3つの流れがある。
  ・ゼネコン
  ・コンサルタント
  ・役所
個人で土木系事務所をつくる人はほとんどいない。関東に集中している。
求められる耐久性がちがう。繊細につくると壊れる。
幅広く、多様に分かれている専門分野は閉じていて、たこ壷化している。
 スケールメリットを生かして考えていくべき。
川や山(水と地形)を対象とできる。
大きなところは得意で、細かいデザインができる人がいなかった。
ほとんどが役所の仕事。設計者は役所をみている。
土木系は不特定多数の人が利用する。
景観や安全が重要。基準があって、デザインの意識がない([3/5]で原因が詳しく解説されています。)まま基準に従っていれば良いと思っている人が多いが、ようやくデザインへの動きがでてきた。
仕事はすべてが公共事業。唯一の民間事業はバブル時期のゴルフ場。
土木系の仕事の善し悪しの基準は、ビジョンにふさわしいかどうか。
土木の仕事は境界線がない。外のことを考えている。敷地の中で収まらない。
限られた中のデザインが大事と思っている人が多くなっている。建築化しちゃうという危機感がある。
道路、下水などのインフラが多いので工夫しなくても食えるビジネスになってしまった。
設計者が言っても相手にされないのに大学の先生が同じ事を言ったら話が通る。
アンビルドをもてはやすメディアがない。土木系では2位案は出てこない。
発注形態は安ければいい。標準設計で発注され、入札で安いものが選ばれる。
設計と一緒にデザインも考えてね、というものがない。別枠。
土木批評家がいない。コンペで奨励賞ができたので外に向かって共有しようという批評の場ができつつある。
決まったら一気に進む。上が決めれば下が動く。


■【土木系の人間関係】
先輩に声をかけられたら、断れない。


■【建築系が土木系に入って来て問題になること】
土木の状況を知らない。
建築の価値観を押し込むと反発される。土木に建築の思想を持ち込むだけでは駄目。
少しずつ変えるための我慢が必要。
行き過ぎるとゼロになるので、落としどころを良く考える。積み重ねが大切。
システムを組み換えていけば、それもデザインになる。
集まっている世界からの全体性は、土木につながる。


■【感想】
【理想と現実の問題】
建築系も土木系も、現実の都市をみてもその通りになっていない気がするというトークが やっぱり現実なんですね。建築系や土木系の学校で学んできた方達は、理想を語り合った り、技術の知識があったりと妄想の世界を現実の世界に落とし込む能力を持っていますが、 建築系も土木系も、実際に利用する人々は、なんの知識もない一般人ですよね。 結局は、利用する人々を口説いて現実化しなければならないと。

土木系の仕事のように、役所で専門知識を持っている人を対象にしても、デザイン的にす ぐれた提案が業界の常識をはずれたものであれば通用しないというんですから、本当に地 道な努力の積み重ねが必要なんですね・・。

建築系ラジオや土木系ラジオが出現して、知名度があがったとしても、興味がない一般人 には通用しないと思うんです。ラジオがそこまでは対象化していないとは言え、街を形づ くっているのは専門知識を持たない一般の方達の方が多いわけです。国家戦略として、建 築系と土木系を義務教育に取込めないのでしょうかね(笑)。街並みも、国の財産になる と思うんですよ。ヨーロッパの街並みを見て、「きれいだな」と思うような風景が日本に もできれば観光資源にもなりますしね。かつての屋根瓦の風景は、もうほとんど見当たり ませんよね。これは日本の風景だと誇れる景観をつくれたらいいですね。

一生を懸けたお金をつぎ込んでつくる住居や、税金というカタチで使われる、しかもある ことが当たり前と思われている道路などのインフラの大切さ。もっと視点を変えて、これ らの建築やインフラは国の財産として扱い、人そのものの豊かさを追求できる余力を生む 仕組みができればなあと思います。

現在の多くの人の生き方は、なんだか目的と手段が入れ替わっているような気がします。 良い家を買うために働いているのではなくて、良い家で豊かに暮らすために働いているは ずなんですよね。一般人からすると、良い建築や橋が目的ではなくて良い建築や橋を利用 することで豊かさを得たいだけなんです。

土木的な視点で建築をつくれたら実現できそうな気がします。
それは、各住居を構成する単位をもっと大きくした建築です。スケール的に土木系に近づ いたものです。家族単位、ご近所単位、町単位、市単位と段階的に大きくなる単位ではな く、境界をとっぱらって共用できる部分は国の資産として扱い、プライベートな最低限の 部分は個人の資産とする・・。クラウド化した建築。はやりの言葉を入れれば良いっても んじゃないですか(笑)。なんかうまい方法はないものですかね。

【業界の境界も超えて】
大学の専門が分かれすぎているのは、世の中が効率優先で分業化が進みすぎているのに合 わせ過ぎているからではないでしょうか。教え方をどうしようかと悩んだ末に、分けて教 えたら教えやすいんじゃないかという教える側の効率や、都合で次々に分化してきたので しょうね。

企業の組織の中にいても、ここまでが担当で、あとは引き継ぎをして下流部署に仕事を流 して、君は次の仕事をしてね、という工程で進んでいます。でも、実際には後ろから突か れて、焦ってコダワリが薄れてしまったり、小さなミスがあったりで、本当に効率的なの か?と疑うこともあります。

世の中、急ぎすぎているのでしょうね。田舎に住んでいるから、こんなことを思うのかも しれませんが、焦ってもろくな事にならないことが多いです。

崎谷さんがおっしゃっていた「建築以外は土木とみていい」とか、倉方さんがおっしゃっ ていた「建築と土木だけでいいんじゃないか」という言葉。抜き出した言葉だけで呑み込 んでしまうと誤解があるので、ラジオを聞いていただきたいのですが、これからはハード だけではないという議論があった通り、細かい技術だの、物理的なものだのなんかは、建 築家なり土木家なりが吸収してしまえば、細かく分業しなくても事はうまく進むのではな いかなと思いました。もちろん、それをしなければならない人は大変ですが、その大変さ は喜びに変わると思います。実際、建築系ラジオに出演されている方々は、多能で人とし ての魅力があると思います。

建築系ラジオや、都市系ラジオ、そして、土木系ラジオが、より一般の人々に訴えかける ことができる環境づくりが大切だと思いました。


・関連項目
土木系ラジオ+建築系ラジオ合同全体討議[1/5]──土木系ラジオ発足
土木系ラジオ+建築系ラジオ合同全体討議[2/5]──土木におけるアイデンティティ
土木系ラジオ+建築系ラジオ合同全体討議[3/5]──土木という領域をめぐって
土木系ラジオ+建築系ラジオ合同全体討議[4/5]──土木におけるコンペとメディアの可能性
土木系ラジオ+建築系ラジオ合同全体討議[5/5]──未来の土木デザインに向けて
出演者:武智仁志

建築を、物理的なものや空間的な目でみるのではなく、「制度」でみる視点が僕にとって斬新でした。制度という視点でみると、なるほど壁や天井、床や柱、窓や扉の存在が消えて見えます。建築を考えるときは、自然と外部と内部の境界線に意識がいくのですが、境界線そのものをつくっている要素ではなくて、境界線を生み出すであろう根源の存在に注意を向けてみるということですね。

保健室が学校制度と異質の制度でできているという事に気が付きませんでしたよ。当たり前の事だと思っていました。小中高時代の保健室を思い出すと、教室よりは狭い部屋ですけど教室と同じように、四角く区切られた部屋でしたね。教室と、壁のあり方は同じ様なものでしたが、勉強机がないことや、ベットがあってカーテンがあったりと、その部屋にどのような家具や道具が置いてあるかで部屋の用途が保健室になっていましたね。外との位置関係の違い以外がほとんど同質な場合は、部屋の質は家具一つで変えられる事もあるということでしょうか。

お話しに出て来た学習机は、学校制度を自分家に持ち込むキッカケをつくっている点では、保健室と同じような機能を果たしていますが、保険「室」と比べて領域性を持った境界線が透明化されたイメージを持ちました。「室」のように「囲まれている」という感覚よりも、光のような帯状の領域に入り込んでいるという感覚です。うーん、例えて言うなら懐中電灯そのものが学習机で、懐中電灯が放つ光が学習机の上で繰り広げられる行為を促す雰囲気です。

ある部屋に学習机をポンッと置くと、机を置いた周辺が勉強の場になるということですよね。学習机が、その机を取り囲む空間をさらに細かく分節しているように見えてきますね。

これ、石上純也さんの「神奈川工科大学KAIT工房」が持つ雰囲気に似ている気がします。柱の配置間隔や方向が一室空間の領域をゆるやかに分節していると思いますが、そこに、テーブルや椅子、どんな道具を持ち込むかによって、その場が工房から別の場にも変容できます。空間を使う人の操作が加わって機能が与えられるというか。家具によって制度の中に制度を持ってこれるのですね。なんという繊細な空間。

この場合、主張の少ない静的な場に目的意識が強いものを置くことで、主張が少ない方が薄れて行くという処理が行われていますね・・・。あー、違う、柱が1本だけあると存在感がありますが、柱を連続的に配置すると、柱単体の存在感が薄れます。学校と保健室の関係でみると、学校の機能の方が繰り返し連続していて、保健室は、その連続性の中のものと比べると異質です。より多い存在が、より少ない存在を強調しているわけです。僕達は集団行動をするにあたって多数決というものを尊重して行動していることが多いですが、少ない方が勝っているという見方は、面白いものです。

対象が建築でなくても、道路に面した店先に丸椅子とテーブルを置けば屋外に増築された部屋のようなものが出来ている光景は街中でも見られますね。道路という車の為の制度でできている場所に家具を置くだけでカフェにもなると。制度の中に挿入された制度って、規定の制限を打ち破るようで、なんだかワクワクしますね。「当たり前だと思っていることが、実は当たり前ではない」という山崎さんの言うようなことに気づけるかどうかで、ワクワク感が感じられるかどうかに影響がありますよね。山崎さんは保健室にワクワクしたのですね(笑)。

空間に家具を置く方法ではなくて、もっと他のもので制度の中の制度ってつくれないものでしょうか。空間とか、壁に囲まれた部屋というと、何かをするにも「手がかり」がないです。そこに家具や道具が持ち込まれると、手がかりになります。大きなスケールの中に、自分が把握しやすいスケールを認識した時に空間の特徴というか、制度を認識するのでしょうか。「制度」を切り替えるのは、あるスケールを持った存在ということかな?

最後の、家と住宅という呼び方については、従来の建築に携わる人のような目じゃない視点で建築を見ているという印象を持ちました。「住む所」という表現は、明らかに従来の建築を構成する壁や床に疑問を投げ掛け、住む人側の現実的な望みを知っている雰囲気を感じました。

山崎さんのインタビューでは、「面白い」という言葉が沢山でてきましたね。本当に建築を考えることが好きなんだなあと思います。

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ラヂオは友の
「でしゃばり目次」
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山崎泰寛インタヴュー
「建築外からのモチベーション 保健室から建築へ」


00:33〜「建築活動のモチベーションは?」
01:32〜「保健室って?」
02:22〜「学習机と制度」
04:26〜「制度の中の制度」
04:40〜「葛藤する家具」
05:43〜「保健室が建築として面白い理由」
07:54〜「皆が当たり前と思っていることが、別に当たり前じゃない」
08:55〜「研究以外の方向へ向かった理由」
09:56〜「建築のことを誰も知らない」
11:38〜「建築の伝え方について」
14:29〜「とびらプロジェクトから考える事」
17:05〜「シンポジウムで別の視点を建築にもつ」
19:10〜「編集者としての仕事」
21:10〜「建築が山崎さんを惹き付ける理由」
24:40〜「家と住宅」
(全 28:17)
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出演者:武智仁志

ついに始まりますね。
土木系のコアメンバーには、あの西村浩さんがいます。
そうです、 西村浩×山崎亮「自走力のデザインメソッド」 のコンテンツで山崎さんと楽しいトークを展開されていた方です。

声が明るいので、ラジオを聞いているとつられて楽しくなってくるんです。「自走力のデザインメソッド」のコンテンツは、土木系ラジオの前身として伝説のトークになるのではないでしょうか。

さて、僕の「土木系」という言葉のイメージは、
  ・規模が大きい
  ・個体としての外観がなく、大きな景色の一部
  ・外部と内部の境界がない
  ・地下
というものです。

土木系は、建築系での「個体の集まり」というイメージと違って、「分節できない大きな存在」というイメージがあります。大げさに言えば、地球に手を加えるというような。建築のように地球の上になにかを追加していくのではなくて、地球の一部を編集していくような感覚です。

ですから、個の集まりというよりは、背景になってしまうほど、そうですね、大きな「もの」ではなくて、存在とでも言いますか、無意識でも存在が感じられるという感じです。「通い慣れた」橋や道なんて良い例です。

人そのものが快適(快適さとは?という問題もありますが)に過ごせる、室内のような環境ではなく、建築や人や空気や植物などを包み込むような大きなイメージもあります。全てをひっくるめて扱うので、なにか個別のターゲットだけが満足するための「境界」が無いような気がします。

あとは、地下のイメージですね。アルゴリズムを使った建築設計ですと、現在は植物が伸びていくような繊維状の構造体が目立って来てます。境界が溶け出していくようで、これはこれで面白いのですが、地下ですと、逆に境界は強固な壁となっていき、違う方向性が見えてきます。アルゴリズム手法で地下を条件にプログラムで展開すると、どういう形態が生成されるのでしょうね。蟻の巣のようですと、ベタな感じがしますけど。木の根状に広がるのもベタですかね。地下の生物がどう過ごしているかが参考になりそうです。

地下は温度が一定ですし、地震の影響も少なくて済むし、地下水もあるし、最近では、LEDの光源で野菜も育てられるようですので、地下都市への展開も面白そうですね。地上の核の脅威も軽減されますしね・・。地下都市は、環境が密閉できるので、重力を制御できるかもしれませんね。そうすると、地上では実現しにくかった反重力的な斬新な建築ができるとか。ヴォイドの存在が人の生死に大きな影響を与えますね。

海底都市への応用も効きそうです。今後、温暖化とか氷河期がやってくるとか騒がれていますが、地下や海底で、土木と建築の力を発揮すれば問題ないですね。あれ?無責任発言・・?

配信日が待ち遠しいですね!
きっと、目から鱗のトークが展開されますよっ!

・関連項目
■「建築」を超えろ!
西村浩×山崎亮「自走力のデザインメソッド」[1/4]
西村浩×山崎亮「自走力のデザインメソッド」[2/4]
西村浩×山崎亮「自走力のデザインメソッド」[3/4]
西村浩×山崎亮「自走力のデザインメソッド」[4/4]

■r4
山崎亮インタヴュー ランドスケープ・プログラミング
出演者:武智仁志

気の小さい僕が聞くと、爆弾発言の雨あられのようなコンテンツです(笑)!前半のコンテンツに続いて、梅林さんの声色が冴え渡ります(笑)。

梅林さんが酔っている(?)とはいえ(建築家たるもの、酒は飲んでも飲まれてはいないはず)、自分の師匠との過去をハッキリとお話されているのは、本当に、お互いに信頼関係があるからではないかと思います。仲が良い程ケンカするっていいますから。

もちろん、ケンカしてホヤホヤの時は本当に大変な時を過ごされたのでしょうけれど、ほら、よくケンカして決着がなかなかつかなくて、最後に「なかなかやるじゃねーか。」「おう、お前もなっ」と互いに認め合っているシーンってあるでしょう?。事が終わると仲良しになってるという状態を勝手に想像しています。そのあと、ゼイゼイ言いながら、土手の草っぱらの上に並んで青空を眺めているシーンです(笑)。
あっでも、この配信で一番の被害者(?)なのは、コバヤシさんですか。
かなりのイメージダウンです(笑)。

山田さんが、ただのインタビュアーでないのは、自分も暴露するところです!梅林さんだけを悪者にしない。自分も毒を吐いて一緒に悪者になるテクニックで、トークの相手に共感を抱かせて、より面白い話につなげていますよね。自分も本当に同じ経験をしてきたということもあるのですが、自分も告白することで「そんな騒ぐ程の内容じゃないよ。大丈夫、大丈夫。」と言っているように思います。大丈夫ということにしておいて配信可能なコンテンツにしています(笑)。お二人共、肝っ玉が座っていて、そして、師匠との信頼関係があるんだろうなと思います。(それとも、本当にただ酔っぱらっているだけでしょうか・・・。)

いや〜、聞いていて熱いんですよ。
僕の身の回りには、熱い人間があまりいません。住んでいる地域の文化的な面もあると思いますが、冷めた考えというか、すねている人が多いような気がします。「好きこそものの上手なれ」という言葉があるように、好きなことを仕事として生きていると、やっぱり自然と熱くなれるんでしょうね。好きなことをして挫折を味わうと反動が大きいでしょうけど、熱くいられると、ダメージが少なくて済みますね。

お二人共、一度に十数件以上の仕事をまとめられてきた経験がおありになるんですね。僕なんかは学校の課題を少しずつしかこなせていません。机上だけでなく、現場でも動かないといけないので、本当にすごいパワーだと思います。このモチベーションは、やっぱり建築が好きだからですか?好きだけでは食っていけないと思いますが、苦労話も楽しそうに話されているのを聞いていると、やっぱり、ユーモアが大切だなあと思いました。どんなことも楽しく話せる能力があれば、苦労も笑いのネタに変えてしまえるんですね。面白くて実力もあれば、そりゃー近い人間は、ついて行きたくなりますよ。

「建築が好き」という想いがまずあって、そして、つらい経験をこなしてきたお二人が言うからこそ説得力がある言葉「耐える」ですね。確かに、今時の子は自分も含めて打たれ弱いです。これも、文化が進んで人間の欲望がより多く身の回りに実現してきた結果かなとも思っています。結果だけを見てしまうんです。人生経験が浅い2歳の子供も、自分の願いが叶わないと泣きますから、社会に出た時に、世の中が分業しすぎていると、「他人が耐えてくれたから自分の欲望が実現している」という事実に気づきにくくなっています。「耐える」という経験ができなくなって来ていますよね。すぐ、なにか他のせいにしてしまいがちです。

楽になることを夢見ているんですけど、その前に耐えなくちゃならないことに耐えられない。楽して何々したいっていう欲望の持ち方が多いと思います。携帯電話でもなんでも必要以上に機能を付けたがるんですよね。使いこなせないんですけどね。

ユーザーが求めるままに答えて来た結果、洗濯機からイオンが出て来た(笑)。おかげで、洗濯機が長持ちしません。5年前に買ったばかりなのに、もう買い替えです。洗濯板にしようかな(笑)。えーっと、話が脱線しました・・・。

このコンテンツで梅林さんの声色を聞いていると、高松さんはやっぱり恐い人なんだなあと結論がでました(笑)。僕も多分、鉛筆を削って待ってます(ブルルッ)。


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ラヂオは友の
「でしゃばり目次」
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46C: 伝説のトーク「梅林克 x 山田幸司」(後半) 
〜建築家がいかに建築家になったか〜


00:00〜「やめるいきさつを」
08:02〜「俺だけ・・・」
08:33〜「なんにもない」
08:53〜「分派!?」
09:20〜「山田さんのビリビリ速達」
09:43〜「ぜんぜんいいよ〜」
10:32〜「デビュー作の裏話」
12:13〜「今のポジション」
13:20〜「山田さんと重なる話」
14:28〜「梅林さんの得意技」
14:40〜「山田さんのこの時代」
15:53〜「山田さんのいきさつを」
17:45〜「帰っていいよ」
18:00〜「建築家とは?」
18:53〜「質問です」
19:07〜「う〜ん」
21:23〜「補足です」
22:54〜「耐えられるか」
23:57〜「このコンビはすごい!」
24:12〜「らぁって言うな」

(全 25:44)
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出演者:武智仁志

いや〜、面白かったです(笑)。「r4」の中では、くだけた雰囲気なので「r4」を敬遠しているリスナーの入門的なコンテンツになるのではないでしょうか。

杉浦さんと中山さんには、笑いの神が降りてきていますね。電波が通じないハプニングを武器に、杉浦さんのつなぎの途中でやっと電波が通じた挙げ句に、「スースースーです」。
もう、最高でした(笑)。

本当にラジオ向けの内容ですね。通勤でチャリをこぎながら聞いているので上り坂の辛さを共感できました。これからは、「ん〜」とか「シャー」を言いながら起伏の体感を意識化できるようになります。

時間と空間を表すということでしたので、基準を決めるのはどうでしょうか。例えば、外径26インチ、タイヤ幅が1インチで、空気圧は4気圧のタイヤで、一漕ぎが1テンポ。このテンポに合わせて、ドラム役の音を刻みます。この基準があれば、起伏に対応する身体感覚をリズム(上りはゆっくりのテンポ)でもキャッチできて、より感覚の共有化が図れるかもしれません。ただ、再生時間は長くなりますが・・・。

オノマトペ音楽(仮称)の作曲者は実体験から仮想体験(音と絵による楽譜化)へという降順で、リスナーは仮想体験から実体験へという昇順という、順序が逆の体験をするので、同じ空間でも感じ方が違ってきます。大きく分けて2つの感覚を合わせて編曲するとどうなるのでしょう・・。互いが見落とした感覚を補え合えることができて、より完璧に近い感覚マップができますか・・・。

起伏は表現しているので、横への広がりは、ステレオのPANで左右への移動が表現できるかもしれませんね。

楽器に置き換えない、擬声語によるアナログな感じが良いと思います。おっしゃるとおり、アップダウンの状況を聞くとタイムリーに映像化できます。風景を知っていたら一緒にサイクリングしている絵も想像できたかもしれません。

土地と経験との関係を探れる可能性を秘めた感覚マップ。抽象化でTAB譜のような読みやすいノーテーションができるかも・・・。
面白いです。おそるべし、ガールズトークっ!

(思ひ出のコメントー初出:2009.9.14)

・関連項目
全体討議 東京論──新しい地形としての東京3
東京を漕ぐ──チャリーディング・ノーテーション
出演者:武智仁志

■『ユリイカ』への感想

 ラジオという「声」を媒体としたメディアの特徴でしょうか。テレビよりも、本よりも、『ユリイカ』内でコアメンバーの方々の文章を見つけると、親近感をもって読めました。まず、コアメンバーの方々の文章を読んでから全体を読みました。DVDも欲しいのですが、建築本が2、3冊購入できる値段ですので、躊躇しています。レンタルは、しないんですかね・・・。

『ユリイカ』の本についてですが、内容と比べて値段が安いと思います。建築系の本は2千円超えが当たり前のようになっていますが、コールハース関連図書で千円ちょっとというのは、かなりお得感があります。南洋堂さんで2009年5、6月売上の連続1位になっていることから、コールハースに興味を持っている人は結構多くて、建築系ラジオの影響も少なからずあると思います。しかし、「リスナーから見た建築系ラジオ」の配信によると、「レム・コールハースの現在」の配信は、ダウンロード数が伸びていないということですので、建築系ラジオを知らない人が購入しているのでしょうか。それとも難しすぎて聞いてくれないのでしょうか。


■「レム・コールハースの現在」の配信についての全体的な感想

 今までの配信でも難しい内容のものはありましたが、「緊急討議 レム・コールハースの現在」の配信は、本当に難しかったです。僕レベルの人間には、なにが難しいかといいますと、レムさんの建築の空間構成の討論は既にいろいろなところでなされているからという理由で、そして、リスナーが理解していることを前提として、何々主義の衝突を表現しているとか、建築の批評性の分析が語られているところです。レム・コールハースの「レ」から説明があるとリスナーは食いつきやすかったというところはあります。ただ、まあ、建築を勉強しているんだからそのくらいは自力で分析してよ、という考えはあるとは思いますが・・・。誰かに教えてもらおうという気持ちがあると、安藤忠雄さんのような存在には絶対になれないでしょうね(笑)。


■レムさんのヴォイドについての仮説

 ヴォイド部分には、実は成果として現実界に表出していないプログラムが組まれた空間が設計過程には存在していて、そのプログラム(物質)に対する鏡像対称性を維持する反物質として残された存在が、「ヴォイド」である、という見方はどうでしょうか?物質と反物質の対生成による現代の建築に対する批評性がヴォイドとして表現されている・・・。3次元CADでいうブーリアン演算の「差」のような手法です。もはや、ジェネリック・シティで差異を生み出すには反物質しかないと・・・。
 この説明でいけば、アイコニックな建築に無意味だと思われるヴォイドがあったとしても、物欲を刺激する資本主義に対する批評性を表現しているという説明がつかないでしょうか。だから、現在でもレムさんの建築には批評性がある・・・。あー、でも、皆さんがおっしゃっていることと同じような気がします・・・。僕のアイデンティティが失われている(笑)。僕レベルは、まず、物質(空間)を分析するべきですね。基本、基本。

 空間を分析して元になる物質が存在していたという痕跡を提示できたら説得力があってカッコいいとは思うのですが、思いつきですので、失笑してください(笑)。もう、難しすぎてクンセイニシンのニオイしかしません。



■僕の根本的な内容での理解不足のところ

 ぶっちゃけ、はずかしいですが、レムさんの建築に表現されているという「批評性」が、そもそもなぜ必要なのか?という疑問(僕の知識、意識不足・・?)があります。
 ユリイカのレム特集号で、難波和彦さんと岩本真明さんの『「ヴォイドの戦略」の可能性』内で「ジェネリック・シティ」が分かりやすくまとめられています。

「雑多な差異が競い合うことによって、逆説的に個性を持たない都市が生まれたことを指摘する。(中略)差異を呑み込み、結局は無個性となる20世紀の振興都市をコールハースはジェネリック・シティと呼ぶ。」(P70)

 この文章で、「森」を想起しました。森は、多様な樹木や草で構成されていて、個別によく見れば姿カタチだけみても差異があります。専門家はこの木は何々、この草は食べられるなどの情報を持って興味深く森をみることができますが、一般人からみると、森は森です。森に対して興味が薄いと、なおさら森にしか見えません。
 建築の話に戻しますと、森が都市にあたるわけですが、元祖ジェネリックな存在である「自然」でさえも差異はよく見ないと失われます。これは、自然なこと(無理していない)ではないでしょうか?資本主義が元となってつくられた都市の結果も自然な事象であると。よって、建築それ自体に批評性が必要かどうかという疑問に結びつくわけです。

 建築に批評性があるかどうかは関係なく、抽象的な言葉ですが、単に気持ちが良い建築をつくる。それが、建築を利用する人に伝わって価値感が伝播していくという構図ではうまくいかないものなのでしょうか。

 批評性があっても、それを追いかけることに必死になりすぎると、
 彦坂さんがおっしゃっていたように感動しない建築と言われてしまうだけのような気がしました。いくら専門家にウケがよくても、説得力が一般の人達(都市の中の根本的な存在)に伝わらないのでは意味がないのではないかと思います。ただ、実際にレム・コールハースさんの建築を体感したことがないので、請け売りのような意見ですが・・・。

 もっと色々ラジオで討論されていた資本主義の中に共産主義が貫入している話とか、欲望の垂直・水平性の話に対する感想も書きたいのですが、文章がさらに長く、まとまらなくなりそうですし、僕の実力も怪しいので、建築がもつ批評性に対する感想でとどめておきたいと思います(笑)。

これからも、多様性のある配信を宜しくお願いします。

(思ひ出のコメントー初出:2009.8.16)


・関連項目
緊急討議 レム・コールハースの現在1
『ユリイカ』レム・コールハース特集について

緊急討議 レム・コールハースの現在2
レム・コールハースの空間図式│柄沢祐輔

緊急討議 レム・コールハースの現在3
批評からスクリプトへ│勝矢武之

緊急討議 レム・コールハースの現在4
シチュアシオニストを編集するレム・コールハース 南後由和(前編)

緊急討議 レム・コールハースの現在5
シチュアシオニストを編集するレム・コールハース 南後由和(後編)

緊急討議 レム・コールハースの現在6
Spectacles of Koolhaas and others 坂牛卓(前編)

緊急討議 レム・コールハースの現在7
Spectacles of Koolhaas and others 坂牛卓(後編)

出演者:武智仁志

本を買いました。
『アルゴリズミック・デザイン』日本建築学会編と、『10+1 アルゴリズム的思考と建築』の2冊です。購買意欲が貪欲で困ります。そういえば、独身時代は車を衝動買いした経験があります・・。

ラジオでの議論を聞いて、関連する図書を読んで、またラジオを聞き直すと理解が深まって行く気がします。(気がしますというのは、僕の理解力の問題があるので・・・。)

どうも、アルゴリズミック・デザインによって導きだされた形態は、僕の好みのようです。『アルゴリズミック・デザイン』で例示されているものは、現在の所、線状の構造体が連続しているものが多いですが、僕の心をわしづかみです(笑)。ハッキリとした面状の境界線ではなくて、物質の延長線上の仮想的な面がいいです。僕は、建築中の建物に、なぜか惹かれる傾向があります。実は、工場オタクかもしれません。山田さんの「笹田学園田町校舎」のコンバージョンは、カッコいいと思います。

本とラジオの内容と照らし合わせてみると、アルゴリズミック・デザインの手法は、ある種の生命体をつくろうとしているのではないかと思います。ラジオで「種」と呼ばれている情報入力源は、いわばDNAの源です。現実界において、例えば人の例をみると、赤ちゃんは両親の性質を生まれながらに持っています。赤ちゃんは、現実的な外界で経験を積んでいないにもかかわらずです。(似なくて良いところが似るんですよね〜・・。)様々な経験を積んで人は成長するものですが、この経験は逐次DNAに組み込まれていくものなのでしょうか?経験を積んでデータベース化し、取捨択一していって最良と思われる結果を得る「量から質へ」のプロセスは、生命体と共通するものがあります。でも、最初のDNAの源によって、この生命体が一体何者なのかが決まってきますね。最初の種は誰が決めたのでしょう・・。

現実界の生命体を見てみると、ほぼ例外なく男と女、雌雄が存在し、互いに影響しあって進化しています。良くないプログラムは自然淘汰されています(人間に関しては医療技術によって良くないプログラムも選択されますが、あっ、でも美人薄命ともいいますから、僕としては助かってます。)。アルゴリズミック・デザインも、もしかすると2つ以上の視点の違う入力源を掛け合わせると、誰それがつくったものという概念が薄れて、作為的な形態が緩和されるかもしれませんね。

将来的には、医療技術がアルゴリズミック・デザインの技術に応用されて取り込まれる可能性もありそうです。構造体も参考になりますね。DNAをデータ化して外部化できると、鈴木光司さんの小説『リング』、『らせん』、『ループ』シリーズのような事件が本当に起こりうると思います。『アルゴリズミック・デザイン』内で紹介されている「マルチエージェントシステム(MAS)」なんて、本当に『ループ』の世界のようです。

建築素材に関しては、コンピュータ内で形態を発生させるようなイメージで、実空間内でも、素材の分子の隙間にICチップを埋め込んで、チップに組み込まれたDNA情報に沿って生成・修復を自発的にできるのではないかと思います。有機的な素材であれば、無毒化したウイルスや、ガン細胞を利用して自発性を高められそうですね。


■「今後の建築家の存在意義」

アルゴリズミック・デザインが当たり前になった後の建築家像を考えてみますと、どんな建築家を目指せば良いでしょうか。

なんでもかんでもプログラムに任せられるようになると、現在の建築家としての振る舞いは、利用価値が薄れてくるように感じます。「AMO」のようなリサーチ能力が大前提となりそうです。良質な種が良質な結果を得る条件になりますから。最初の種もプログラムで探索するようになると、建築家という職業が危うくなる可能性もあります。(困りましたね・・・。考え過ぎですか。)

設計プロセスは以下のようなイメージでしょうか。

1.目的と環境と、そこから発見した最初の視点を情報源として入力する。所員のそれぞれの視点を片っ端から入力する。(もしかして、所員が不要に?)
2.プログラムが目的に近い解答を出すまで、建築家は他の視点を模索する。
3.新しい視点が発見できれば、追加入力する。
4.やっぱり最後は人の手で選びたい。

・・・。
設計として楽しくなさそうです・・・。

特に学生コンペの審査員をされている方は、コンペ案を出した人物の将来を楽しみにしているから、審査するわけで、コンピュータにそこまで何かを感情を込めて期待できるかどうか。だから、ただ結果を選ぶだけの作業は飽きると思います。

考えられる課題は、

1.形態、構成が納得できるものへと成長するまでに時間がかかる
  ようになる。(プログラムは、妥協できないだけに厄介。)
  情報処理のスピードがハード的に追いつくか・・・。現在のC
  ADでさえ、新しいバージョンはドンドン処理が重くなってい
  る現状があります。
2.視点からの結果が似たようなものになり、作業を繰り返しても
  なかなか納得できるものを得られない。最初の視点探索をプロ
  グラムに頼りたくなる。そして、人間は考えなくなる・・・。
3.考えなくなった建築家、エスキス経験を積んでいない建築家が
  そもそも良質な情報を最初の種として入力できるかどうか。現
  在は、まだきちんと頭と手と足で考えているから、斬新で発見
  的なアイデアを生む建築家が沢山いますが、考えなくなったら、
  新しい視点に気づかなくなるような気がします。

考えられる対策は、

1.設計補助的なものとしてアルゴリズミック・デザインを導入す
  る。(頑に・・・。)極端な話、戦争、災害でコンピュータが
  役に立たない環境だと、プログラムに頼り切っていた建築家は
  何もできなくなる。最後はグレン・マーカットさんだけが建築
  家として生きられる(笑)。情報の内部化も大切ですね。
2.プログラムそのものに建築家自ら手を加えて他の軌道をリアル
  タイムに試す。(違うプロセス。)

プログラムを自ら組めるということは、プログラムの内部処理を整理できていて、理解しているということですから、プロセスがブラックボックス化されていないということになります。プログラムの中身を知らなくても、誰でも良質な結果を得られるという発想は、組み込まれたプロセスの中での良質な結果ということであり、「井の中の蛙」ということになりかねないと思います。

やっぱり、プログラムが組めて、歌って踊れる建築家でないと生き残れないのでしょうね(笑)。

(思ひ出のコメントー初出:2009.7.4)

・関連項目
テーマ討議 アルゴリズミック・デザインをめぐって2
アルゴリズム、方法論の多様性と対立性
出演者:武智仁志

そうなんですよね、インターネットと比べると本を読む方が好きで、インターネットを見ていると時間を損したような感覚になります。
気が付いたら時間が結構経っていて、結局は頭に何も入っていないような気がするし、したかったことが何も進んでいないという思いに支配されています。インターネットの情報って、他人の家を覗いているような感覚があって、物質的な感触が無いせいなのか、その世界に入り込みにくいような気がします。

一方、本を手にしている時は、この本を買ったという行為にも原因があるのかもしれませんが、所有している満足感があり、自分が書いた本ではないのに、自分の本として、自分の知識に成り得る存在として、頼もしいものとなっています。iPhoneやiPadを触ったことがないのですが(生きた化石?)、また違った感覚なのでしょうか。想像するに、無機質な物質を介して得られる情報に色気は感じないような気がしてます。こんなこと言ってたら取り残されますね(笑)。

インターネットの情報は、タダであるという事への意識から、いつでも見れるという思いとなって、その知識を自分の内部に取込む意識が薄れるのでしょうかね。携帯電話などで気軽に持ち運びできますからね。身近な例を挙げてみても、パソコンに頼った生活をしているためか、歳のせいなのか、漢字が出てこないですね・・・。薔薇なんて絶対書けないし、覚える気力がないので、こういったネタの話の度に、書けない漢字として登場してきます(笑)。

パブリック的な感覚のインターネットと、プライベート的な感覚の本。
そうか、空間的な原因もあるのかもしれませんね。パソコンという機械を介して世界中に接続しているのだけれども、体感的に情報と同じ空間に存在していない自分を感じます。セカンドライフのように、たとえ自分の分身がネットの世界にいても、情報と同じ空間にいるという感覚が薄れていそうです。そして、自分以外の他者の存在がありますね。

反対に、本を手に取り、文字の羅列から自分の頭の中に浮かんで来た映像のような世界に意識が入り込んだ時は、情報と自分の精神や肉体までもが同じ空間に存在しているような感覚になります。特に、小説のような物語性がある文字情報は、それが強いと思います。著者の世界に、特別に招待されたような感覚でしょうか。

同じ仮想空間ですが、入り口を開く手段やその先の世界によって、得られる感覚が違うのかもしれませんね。本の歴史はインターネットよりも古いので、自分のDNAに本を開く行為に対する慣れた感覚が刻まれているのかも。

インターネットは内容が薄いという指摘がありましたが、インターネットに向かう制作者の気軽さと、本に向かう制作者の真剣さが違う気がします。

つまり、お金?
気軽さには執念がなく、売らなければならない!という感覚が不要だと。そう、「執念」がないですね。もちろん、皆がそうというわけではないのですが、「見返り」があると人は頑張りやすいのでしょう。なにかと引き換えに、何かをするという生活に慣れていますから。それが、書き物の内容に影響してますね。伝えたい事が先にあるのか、それともお金が目的なのかで、制作者の生き様がブログに表れるのでしょう・・・。(えっ、僕?はっはっは〜)

お金を排除することは不可能でしょうけど、つくったものが直接お金を生むのではなく、間接的にお金を生むような事態になれば、そのメディアは次の段階へとたどり着けるのかもしれません。結果的にタダではないのがポイントで、かつメディアそれ自体に何のしがらみもなくなれば。

でも、北川さんのコメントがごもっともで、「読み方」ですね。本当にそうだと思いました。与えられた情報をどうしたいか、どうするべきかを情報を得た本人が考える。そして行動をするんですね。動ける人間になれるかどうかは非常に大きいです。僕が言うのもなんですが。

こうして考えると、建築系ラジオはうまくできていて、パソコンから他者がつくったインターネットの世界に一旦入るのですが、その世界で得られた情報は、自分の耳を介して、自分の頭の中で映像化されます。ほんの少しのタイムラグで他者の世界と自分の世界を行き来しているんですね。両者の垣根を突き崩す兆しを感じます。しかも、ダウンロードをしてしまうと、所有感も得られます。ダウンロードができるということもポイントですね。そして、収録自体がリスナーを行動させています。2つの仮想世界と現実世界、そして日本以外にも接続していこうとしている建築系ラジオ。うわ〜、建築系ラジオから新しいプロジェクトや建築が生まれる日も近いかも!?複雑な構造を持っているメディアに変容できそうな予感というか、期待があるのですが、まだまだ可能性がありそうです。皆さんも、メディアを変える当事者ですよっ!

・関連項目
メディア環境の変容について
出演者:武智仁志

建築系の本は高いので、泣きながら毎月のように購入しています。この配信のような情報はありがたいです。

地元では専門書を扱う本屋は限られていたうえ、つい最近、閉店することになってしまいました。中心街にあって駐車場代がかかるので、送料が無料になるAmazonでの購入が普通になっていました。ポイントも付きますしね。カードで購入して、カードポイントもたまり、重宝しています。

本を選ぶ基準は、Amazonのレビューが基準になっています。建築系ラジオを聞くようになってからは、情報が多くなったので、欲しい本が沢山ありすぎて、経済的に困っています(笑)。特に南洋堂さんの紹介番組で紹介された本は、あますことなく購入しています。ラジオでお世話になっていますし、建築系の本は、特別な理由がないかぎり、エクスナレッジ経由で買うように切り替えました(送料無料なので・・)。ラジオ効果バッチリです(笑)。Amazonにはない特典も魅力の一つです。

残りわずかとか、絶版などの売り文句に弱いのです。古い本で流通していない本が欲しくなるので病気ですね。

紹介された『建築をめざして』や、『錯乱のニューヨーク』は一年次か2年次の時に購入したのですが、頭にまったく入ってきませんでした。建築系ラジオを聞いて、また読み返そうと思います。今まで読んだ建築系の本で面白かったのは、セシル・バルモンドの著書『informal』です。
思考のプロセスが伝わり、吸い込まれました。アイデアを実現させる構造家はスゴイ人種だと思います。

本の紹介もありがたいですが、松田さんの「本の読み方」もありがたいです。課題に追われるし、建築と無関係の仕事もしなければならない社会人大学生にとって、「時間」をどう有効に使うかは大きな問題です。速読ができるようになるという本を買いましたが、この本を読むことが苦痛となって結局、身に付いていません(笑)。定期購入は、大学の先生に勧められて『DETAIL JAPAN』を購入していましたが、残念ながら休刊してしまいましたね。そのまま英語版の『DETAIL』を定期購入していますが、英語なのでチンプンカンプンです・・・。でも、定期購入は有効な方法だと思います。友達と本について語り合うのは、なるほどと思いました。人に伝えるにはある程度の理解が必要ですし、理解しきれていない箇所を互いに補い合えますね。ナナメ読みが、性格上なかなかできなくて、巻頭から順番に読んでしまいますが・・・。

村上さんが紹介された、五十嵐さんの本も気になります。自分で電子化して、ipodで聞こうかな・・・これまた、時間がないですね(笑)。

これからも、どんどん紹介をお願いします。楽しみにしています。

(思ひ出のコメントー初出:2009.6.28)

・関連項目
全体討議 建築書1
建築の基本図書
出演者:武智仁志

いつも興味深い話題をありがとうございます。

「アルゴリズミック・デザイン」というカタカナの時点で尻込みしてしまうのですが、何回か聞いているうちになんとなくイメージできだしたかなーという感じです。(正確に把握しきれてないですが。)「何回も聞ける」というのが、建築系ラジオのすばらしいところですね。

 他者性を設計手法に加えて、自分の頭で考えられること以上の成果を期待することですよね。こう書いてしまうと、なんだか手抜きのように聴こえてしまい、手抜きして成果を得ようとする現代らしいやり方(コスト、納期優先。しょうがないですが。)なのかな、なんてしょうもないことを考えたりもします。

身近な例でも、複数のメンバーで、ある建築を考えることは自分の能力を超えた成果を期待するためでもありますから、超能力という意味では、アルゴリズミック・デザインの一つと言えるのかもしれません。

「アルゴリズミック・デザイン」の他者性の他者とは何者か?を考えると、

・他の設計者
・コンピュータプログラム
・建築を利用する人々(建築の使い方の発見)

などが、挙げられますが、これらは、あるルールや条件を必要としています。作為のないデザインを目指しているが、実は、作為を促す必要があるということです。「他の設計者」が主設計者の思惑を無視して勝手に設計するわけにはいかないでしょうし、「コンピューター」は与えられた条件を無視して物事を計算できないでしょうし、「建築を利用する人々」も、暗黙のうちに制御されています・・・。

人智を超えた身近な存在、作為のない偉大な設計者を「自然」と言うとすると、自然を構成する存在はどんなものか?を考えると何か見えてくるかもしれません。

自然は、
・多様な生命体がそれぞれの思考で生活空間をつくっている。
・多様な生命体のそれぞれの思考が相違してくると、自然を形づく
 っているバランスが崩れる。
・現在成り立っている自然に受け入れられない存在は、自然淘汰さ
 れる。

という条件が見えてきます。

実は、作為がないように思われる自然も、多様な生命体それぞれが思考する作為と作為のぶつかり合いで成り立っているように思います。単体の思考ではなく、全体を成り立たせている多様な思考を指して「作為がない設計」と言えるのではないでしょうか。

1人の設計者が作為を消すには、ほったらかしの空間をつくるか、人工知能(条件を発見できる知能)を利用するしかないのかもしれません。

ああ、僕って夢のないやつ・・・。(笑)
やっぱり、正解は、全ての答えを求めるのではなく、徳山知永さんがつくる設計補助ソフト的なもので止めておくのが良いのかもしれません。そういえば、徳山さんもそういう内容を語っておられた気がします。

でも、色々やってみないと、何がいいのか判りませんね。続きの配信を楽しみにしています!

(思ひ出のコメントー初出:2009.6.25)

・関連項目
テーマ討議 アルゴリズミック・デザインをめぐって1
アルゴリズミック・デザインとは何か?
出演者:武智仁志

電子的に管理できる移動手段って、觔斗雲がいいです(笑)。閉じたチョキを口の前でヒュヒュヒュヒュッヒュッってやると、空からギュイーンってくるんですよね。邪魔にならないし、月々980円で乗り放題!ただし、快晴の日は使えません(笑)。
 乗り換えの部分が重要とおっしゃっていましたので、建築系はここのところに手を出すとおいしいですね。でも、特定の電車のための何々ではなくて、Aの乗り物からBやCの乗り物に乗り換えできる場所ですよね。現在の駅の概念とは、また違った発想かあ。でないと何も変わらないですもんね。

ホント、もったいないなぁ〜って思ってたんです。移動空間。
早朝まで飲んだ帰りに道を歩くと、店を出る前まで人がたくさんいたのに、気が付けば誰もいない・・・。(え〜っと、東京ではありえないっすか?)ただの空き地になってるんです。そのことに気付いた瞬間、道路の真ん中で大の字に寝ても、スキップしても、何しても自由にできるんですよね(笑)。屋外空間の魅力ってそういうところにありますよね。

住宅の廊下も移動空間だと思うのですが、各空間をつなげる装置であると同時に、空間までの前座というか演出があるとウキウキしますよね。屋外の移動空間ですと、目的地までつなげるという機能は充実しているのですが、前座の役割とか、色気って皆無です・・・。目的地の可能性が多すぎて演出しきれないのかもしれませんけど。ちなみに、僕が車で近道をすると、かならず行き止まりになります。「道はつながってるから道というんだ」と言われるのですが・・・。

最近つくられる道路では、歩行者空間が広々と確保されているものが多くなっていますが、古い道路ですと、んな狭いとこ歩けるか!といいたくなるような、か細い歩行者空間があります。しかも、車を尊重しているので、歩行者空間の道路はデコボコしていて歩きづらい・・・。車を尊重しているということは、「さっさと移動してください」と言っているようなものですし、プイっと軽く足首を傾けるだけで前進できる車に、なんで友好的な道路をつくるのかズッと不思議でした。(ちなみに車は持ってます。)ゆっくり走らざるを得ない道路、駐車したくなる道路って戦略的につくれないものでしょうか。

羽藤さんがおっしゃっていましたね。「より遅い交通をどう導入していくか」と。車で移動すると、まったく気が付かなかった建築や店なんかが、自転車で通ると、おやっ?こんなとこにあったっけと発見できたりします。さらに徒歩になると、もっとまわりの景色が目に飛び込んできますね。そうなんです。探さないと見つからないというのではなくて、目に飛び込んでくるんです。地元をにぎわせたいのなら、遅い交通を演出するべきですね。A地点からB地点に行きたかったけど、途中のA'が気になると思わせる交通ですか。松山市内も、車の乗り入れを課金制にして、安心して歩ける街にすれば観光しやすいのですけどね。歩く方が休憩する頻度も高くなるのでより長くとどまってくれると思います。現在は河川敷に公園をつくるパターンなのですが、車が減ったタイミングで既存の道路をゆっくり公園化してはどうでしょうか。遅い移動空間が近隣住民のコミュニティスペースとして機能したり、観光客の休憩スペースになったり、歩き遍路にもなる可能性の方が、目先の利便性より将来性があるような気がします。

松山市の道後のお話もありました。道後温泉前を快適な景色にしていただいたのは羽藤さんだったのですねっ!しかも、ついこの間まで松山におられたなんて。現在の道路に変わる前は、県道六軒屋石手線を車でビュイーンっと上ると、その脇に道後温泉がありました。道を挟んだ向かい側の商店街に渡るには、信号機のない横断歩道を頼るしかありませんでした。風呂上がりで車にひかれる可能性がある温泉だったのです・・・。当時はがっかりしました。あまりにも街の雰囲気が合っていない。突然、道後温泉があるんです。行った当時、道路に演出性があればと思いました。

「制約条件と思っている事をつき崩す」というお話。羽藤さんが強調しておられる「一人の頭にいれて何をやるべきかを考えるべき」という行為が、あらゆる境界を超えて、こうでないといけない部分を超えられるということですね。最後は、人間の脳の処理能力に期待できるということですか。シミュレーションのデータに期待するのではなくて、データで議論のスタート地点を高めておいてから、あらゆる専門家とコミュニケーションをすることで新しい発見ができると。アルゴリズミック・デザインの手法を取り入れる場合でも同じことが言えそうですね。負担が低減できた分、経済的な効率によって生まれた分業で手を抜く事ができた領域に踏み込み、互いが当たり前だと思っていた部分に新しい発想が生まれるかもしれませんね。觔斗雲も幻ではなくなると(笑)。

ラウンドテーブルをどうやって設定していくのかが問題というお話がありました。議論をする場ではなくて、いきなり設計してしまうというのはどうでしょう。議論の場は建築系ラジオの全体討議で済ましておくということで。プログラミングの世界のオープンソースという仕組みを取り入れて、同じ組織に属しない不特定多数の人達が、ある公共建築を設計してみるという試みをすると面白いのではないかなと思います。クライアントを待つのではなくて、街に出て動いていない土地(価値を見いだせない場所、中古物件)を見つけ出し、全国にクラウド化している建築系、ランドスケープ系、土木系、都市系の専門家がネットを介して設計をするというものです。誰がつくった建築かということに視点が向かわないので、新しい価値観・可能性を持った面白い建築ができないでしょうか。もちろんまとめ役が必要ですね。オープンソースのソフトみたいに、ソフトそのものが直接お金を生むのではなくて、その図面をつかった成果物でお金になると。空間のアイデアがオープンになってしまいますが、それにより日本の建築がどんどん高まればいいじゃんという気持ちで。建築系ラジオのスタッフの皆さんでやってみると面白いかも。特定の組織力と対抗しうる手法にならないですかね・・・。ソフトのこの手法は、なぜまとまるんだろう・・。ソフトを分節して、その領域の中を各自が設計しているのでしょうか。

どの業界でも今後求められそうな「専門性を渡り歩く人」。それは、かつての建築家と呼ばれる人が持っていた能力を、再び現代に呼び戻すことが可能な人材かもしれませんね。
・・・誰だろう?
それは、建築系ラジオを聞いている、あなたかもしれないっ!(笑)

・関連項目
交通から都市と建築を考える(第5回カルチベートトーク)[1/4] 
― レクチャー前半:〈移動〉から見た都市
交通から都市と建築を考える(第5回カルチベートトーク)[2/4] 
― レクチャー後半:移動空間の再生

交通から都市と建築を考える(第5回カルチベートトーク)[3/4]
 ― 討議前半:モビリティ・クラウドをめぐって

交通から都市と建築を考える(第5回カルチベートトーク)[4/4] 
― 討議後半:モビリティによるこれからの都市

羽藤英二先生が考えるモビリティとは?
出演者:武智仁志

美術家 糸崎さんの視点には、共感できますし、面白いと思いました。日常の現実を普通の視点ではなく、違った視点で見ることで、「発見!」があり、この「発見」がアートをつくる人間にも、それを鑑賞する人間にも楽しさとして価値感を共有できるものにしていると思います。
 街中の昆虫を主体とした写真は、鑑賞する人にとって、自分の身近な場所で体験できるかもしれない、今までと変らない場所が違って見えるかもしれないという期待を持たせます。人間がつくった街中でコントロールできない昆虫が主体として扱われている。面白いですね!都市や街中は、常にある意図のもとに道や建築がつくられていて皆、知らず知らずのうちにコントロールされていますから。人間側の意図とは違う目的で昆虫の世界が営まれている・・・。
 対して現代アートでよく表現される想像の世界は、自己完結して、閉じられた世界なので、自閉的と感じるのかもしれません。鑑賞の場と生活の場と、世界が2分されています。この感じは、美術館に展示しているアート作品という環境にも通じます。
 発見のあるアートは、「現実」を通して鑑賞している世界の外側と関係を保っているように思います。拡張性があるという感じです。

建築でも同じ事が言えそうで、敷地や周辺環境が隠し持っている特徴の魅力を普段と違う視点で上手く捉えられたら、その発見を他者と共有でき、説得力があって楽しい建築ができるのでしょう。

糸崎さんのコメントで、都市を形づくっている有名でない建築の集まりは、コントロールできないだけに奇妙な造形が形作られてるというものがありましたが、「コントロールしきれない」要素が、なんだか大切な気がします。街並を建築家だけで考えると、どうしてもテーマパークっぽいものになったり、素直に納得できないものになりそうですが、「隙」を与えることで、なにかが成長するのを期待するのも良い方法かもしれません。似た手法としては、住宅で言えば、部屋の用途を曖昧にして、住む人に委ねるというものがありますね。住む人の生活によって部屋が変るというものです。やりすぎるとつくる側としては面白くないですが。

「隙」は、壁や天井、床という既存の概念を壊せるかもしれません。(言い過ぎですか・・)現在の若手建築家が思考している建築は、外と内の境界線をなんとかして今までと違う方法で接続しようという方向性があると思います。しかし、空調などの問題から、どうしても「面」で境界線を捉えようとしています。「面」を、例えば植物などの人間の意思が伝わりきらない「隙」と置き換えたなら、とか、点状のものと置き換えたら、など最近考えます。その辺が、僕が廃墟に関心を持つ理由なのかもしれません。 あー、でも、思いっきり石上純也さんの影響ですね・・・。

全て新しいものでつくるとどうしても意図が入ってきますから、隙が出来にくくなります。別のアプローチとして、村上心さんが言う「再生」が生きてきそうな気がします。既存の建築を壊して、また自閉した新建築を建てるとあまり変わりばえしない気がします。既存の、ある建築とまったく無関係だった別の建築が、なにかの媒体によって関連付けられた新しい空間がつくれるのがリノベーションやコンバーションにある可能性です。自閉的な一個体である建築同士を新たに接続しなおすことで新たな関係性を持った街並がつくれそうです。特に狭小地が多い都市で有効ではないでしょうか。既に存在している要素ですので、完全にコントロールできない発見的な空間ができそうな気がします。実際にどうするかは・・・色々考えるとヨダレが出そうですね。

(余談ですが、村上さんは、山田さんの兄貴というだけあって喋る雰囲気がとても似ているような気がします。)

また、次の配信も楽しみにしています!ありがとうございました。

(思ひ出のコメントー初出:2009.5.13)

・関連項目
28A: 美術系ラジオ第5回「アートフェアにこの作品が並ぶ理由」
村上心インタヴュー
「再生」教育の重要性/ストックの活用

出演者:武智仁志

いつも興味深い話題をありがとうございます。

彦坂さんが建築を抜きにして美術は語れないとおっしゃっていますが、そのお話と関連しそうな講演会が今月19日に愛媛でありました。

講師は東海大学名誉教授の上松佑二氏です。ルドルフ・シュタイナー建築研究家の第一人者で、『新しい建築様式への道』と題して講演されました。上松さんもシュタイナーも知らなかったのですが、ネットで調べると上松さんの著作は高額古書扱いではありませんか!(こういう残りわずか!とか、今は手に入らない!と言われると欲しくなる性分でして・・・消費者の鏡ですね。)高額古書を書ける人物の講演ならばぜひ聞かねばと参加した次第です。

上松さんは、最近(?)は建築をメインにはしていない様子でして、シュタイナーが創始した人智学(アントロポゾフィー)を広めようと、そちらの方に力を入れているようです。ですから、建築に関する講演は年に1度程度と、講演会の企画者から紹介されていました。年に1度なんて言われると、ますます欲が出て来ます。そこで、建築からの視点ではなくて、美術系ラジオの視点でインタビューしていただけるようリクエストします。なぜなら、現代建築への批判的態度が読み取れるので、美術系の知識が豊富な彦坂さんと建築と美術について対談をしていただけたらと思います。

講演の内容を紹介しますと、現代では上松さんが考える「新しい建築」を生み出すのは難しく、理由は、背景になる世界観が無いので多様性を失い、中心が持てなくなって新しい様式が生まれないからとおっしゃっていました。あらゆる分野で行き詰まっていると。現代の美術館についても語られて、建築の入れ物の中に芸術作品を飾るのではなく、総合建築として建築と芸術が融合するべきだと。例として、シュタイナーが設計した「ヨハネス・バウ」、後に「第一ゲーテアヌム」と呼ばれる建築を説明していました。木を積層して、彫刻家達が彫ってつくりあげた建築です。この写真が載っている古書が3冊も会場にありましたが売っていませんでした。ちなみにこの演劇場の最後の仕上げをした彫刻家についての本を2009年の夏に出版予定らしいです。

新しい建築様式の結論として、人間としてふさわしいことは何か?を考えることが新しい建築であると、おっしゃっていて、フォルム(形態)と色彩という本質を追求するべきと訴えていました。フォルムに精神を宿すには、手作りでしか方法がないとも言っていました。また、フォルムが次のフォルムへと形が変化する、植物の変容のように有機的なものである必要があると。有機的なものは、生成と発展があるからのようです。

僕には、有機的なフォルムの連続体によって建築そのものを構成することが、美術と建築が融合した究極の形態かどうかは分かりません。でも、ついつい触りたくなるフォルムというのは、機械にプログラミングされたものがつくりだす素材と空間の境界線では出来ないのではないかとなんとなく思うところはあります。上松さんが、海と空が存在することで自然につくられる境界線を「原形絵画」※の例として挙げていました。関係がつくりだす二次的な境界線でしょうか。確かに、サイズの大きい丸太でできている柱だと触りたくなります。

上松さんとは、建築と美術の関係のあり方について対談していただきたいです。アールヌーボーやアーツ・アンド・クラフツ運動とはどう違うのか、荒川修作さんの建築は美術と融合しているのか、などのお話もどうでしょうか。質疑応答時に、現代で全て手作りの建築は難しいのでは?という質問もしてみましたが、どの作家も悩んでいるという解答にとどまりました。建築が向かう方向性の一つとしてシュタイナーの思想も面白いかと思いました。

※原形絵画:上松さんが独自に表現しているもの。色彩が源となり、
      例えば、ライオンを見てライオンを描くのではない絵画。
      抽象絵画とも違うらしいです。

また、長くなりました。すみません。
今後もよろしくお願いいたします。

(思ひ出のコメントー初出:2009.4.26)
出演者:武智仁志

いつも楽しい話題をありがとうございます!美術系ラジオの方が白熱した感があって、聞いていて次回の配信が気になります。彦坂さんの美術界に対する嘆きが伝わってくるようです。

■「美術館の中で語ること」について
26Dの配信で話題となった現在の美術館のあり方は、言われてみれば、たしかに不自然ですね。なんの疑問も持っていませんでした。美術館という入れ物の中で芸術を楽しむ態度の常識は、静かに見て回るだけの環境ばかりですね。作家が作品の背景として想定しているものも、すべて真白にして並べられているだけの場所になってしまっています。

僕の場合ですと、サラリーマンとして他者にオンブして生きて来たせいか、「美術館を貸し切りにして収録しましょう」という発想しかありません。しかし、五十嵐さんは、展覧会の宣伝になるしよかろうと、真っ向ガチンコで勝負しようとしています。この戦う姿勢は、既存の美術館のあり方を、既存のまま改革できるものであり、芸術に関わってくる人の意識と展示空間のあり方を変える可能性を秘めていると思います。

子供と美術館に行くと、子供なのではしゃいだり、大声で話したりするのは普通の事なのに、それを制している自分がいます。でも、はしゃいでいる子供と芸術作品を楽しんでもいいんですよね。子供が作品をみてどう感じたか、実物を目前にしながら語り合う方が、記憶に強く残るし、美術館という場所にわざわざ出向く意味があると思います。インターネットで見る映像とはリアルさが違うという利点をもっと生かすべきですね。

また、家族だけではなく、ぜんぜん知らない他者とその場で会話することで盛り上がったり、居酒屋のようなシチュエーションもありな気がしてきました。パブリックな空間に直接的には無関係な人達が集まっているにも関わらず、お互いなんの関係性も持てないまま、ただ作品とだけ対峙する空間というのは勿体ないですね。。。しかも、わざわざ美術館に出向いても、他者の頭で作品がよく見えないということが、よくあります。特に都会の美術館はそうなのでしょうか、2007年に「東京都美術館」に行ったときは酷かったです。

美術が変れば美術館建築が変るのか、建築が変れば美術が変るのか、現在の美術館を常識として認識してしまっている僕は、「美術館の中で語る」という一言で、新しい美術館のあり方の想像を膨らませるのが楽しくなってきました(微笑)。

ますます美術系ラジオから耳が離せません。

(思ひ出のコメントー初出:2009.4.21)

・関連項目
26D: 美術系ラジオ企画編ー美術と建築のコラージュに向かって
出演者:武智仁志

残念ながら、4回目の配信は聞けなかったのですが、どこからでもダウンロードできるコンテンツが、最終回は特定の場所に行かないと聞けないという仕掛けが面白いです。

個展で問題(?)のコンテンツを流すと、その音声で空間が包まれるので、その場所の雰囲気を変えてしまう恐れもあったと思います。視覚で捉えられる映像が同じでも、映像と音楽の組み合わせによって全体的に受ける印象がまったく違ってくると思うので、個展に漂う雰囲気が気になりました。

さて、松田さんの中庭論。飲みながら収録されたということで、話が脱線気味だったように思いますが、やっぱりくすぐられるお話でした。
中庭ということで、なにかに囲まれた輪郭の内側にある空間ですよね。中庭が存在するには外側の存在が必要ですね。松田さん自身もトーク中に、中庭を復権しようとはしていないとおっしゃっていましたので、中庭という言葉に意識をさせておいて、実はその外側、つまり建築本体であるとか、あるいは中庭を囲む何か(交通網とか田畑とか。『建築家なしの建築』の本にでてくるやつです。)に面白い提案があるのではないかと期待が膨らみました。建築があって相対的に存在できるものが中庭ですもんね。ですから、中庭の可能性を限定したくないということですね。「括弧つきの中庭」とおっしゃっていました。つまり建築の存在が大きいと。
打撃系の格闘技で言えば、ロー(中庭)打って、またロー(中庭)打って、相手にロー(中庭)を意識させておいて、ハイキック!(建築)という展開ですね。でも、ただのハイキックですとベタですしリスクが伴うので崩し技を入れてのハイ!これなら花もあるし確実・・・
おっと、すみません、勝手に興奮してしまいました(笑)。

建築と「中庭」が補完し合う関係を考えると、なんだか面白そうです。
中庭が都市と接続するのではなく、建築が中庭を通して接続するのが大切だと思いますので、ヴォイドとは違う第三の概念に期待します。

都市と言いますと、道路との関係も気になるところです。<中庭ー建築ー道路>という空間の並びが僕の頭には浮かんでくるのですが、「都市組織としての中間領域」という松田さんが言われた言葉から考えると、<建築ー中庭ー道路>という空間の配列がイメージされます。
この平面的な配列のままですと、中庭にはなれないので、空中にしつらえられた中庭ということも可能性として想像できます。僕は、中間領域というものに興味がありまして、単純に言えば縁側のような領域が好きです。建築を勉強する前でもなんとなく縁側は気持ちが良いという感覚を抱いていました。でも、縁側のようなものを日本的なイメージの中庭に拡張するとただのデッキになってしまうんですよね。ですから、それは松田さんの提案される中庭とは大きく違うと思います。

僕が都市の最小単位(住居)からイメージするのは、狭小とか、圧迫感という言葉です。中庭のようなもの=外部という認識であるならば、すべてが閉ざされた内部だけの空間よりも開放感とか空間の広がりを得られると思います。うーん、ただ、松田さんが言う中庭のようなものとは、個人宅で閉ざされた庭ではなくて、外部と接続する庭ですから、開放感が得られるとか、そういう単純な話ではないですよね・・・。

今回の話の流れでは、コミュニティ空間という話で終わらせたくはないとおっしゃっていましたが、最終的には中庭を解放すること(公共空間化)くらいしか僕には思いつけません・・・。
小さな町の商店街の、立ち話している店頭の空間のように、買い物をしてもしなくてもそこに居られるような空間。あるいは道路にまで拡張しているカフェ空間。あーそうかっ!道路をもっと緩和して道路を移動空間だけで終わらせなければ中庭といい感じでつながりそうですねっ!車さえ家の前を通らなければ、安心して歩けるのに・・。

『彦坂尚嘉のエクリチュール』という本を読んでいるのですが、都市と建築の関係を思うと、幻像絵画の項のジョゼッペ・アルチンボルドやルビンの絵画が思い出されます。中庭は建築の一部であり、都市の一部でもあるという2面性を持っているものが、同時存在するという。ある視点の存在とまた別の視点の存在、そして全体への視点(都市+建築+自然)の3つの面白さがあります。かつての「庭」と違う、なにかヴォイドとは違う存在ということは、断面的な操作の可能性が面白そうです!松田さんの今後のご活躍が楽しみです!

途中、南さんの感想や、最後の松田さんの社会と影響力のお話も聞きごたえありますよっ!

・関連項目
都市建築へ(中庭をめぐって)[1/3] ― なぜ中庭なのか?
都市建築へ(中庭をめぐって)[2/3] ― 緩衝領域としての中庭空間
都市建築へ(中庭をめぐって)[3/3] ― 社会というイシューを超えて

出演者:武智仁志

 建築系ラジオは、会社の昼休みに半分寝ながら聞いていました。ですので、本当に記憶に残っていない配信もあって、これでは勿体ないと思い、小遣いはたいて「ipodShuffle」を購入しました!自転車通勤中に聞いてます。

 今時のウォークマンはスゴイですね!曲名の日本語を僕よりも流暢に語りかけてくれます。人名はさすがに苦手のようで、五十嵐淳さんを「いがらしあつし」、磯崎新さんを「いそざきしん」と読んでいました。「?」は、語尾を上げて読みます。感動。山本理顕さんはきちんと読んでいました。さすが、建築家2.0の方ですね。機械もシャッキ!とします(笑)。
 今度、宮脇壇さんと武智仁志を読ませてみようと思います。はたして、「まゆみ」と読めるか!(僕は読めませんでした。)、武智は建築家2.0になれるか!?(苦笑)

さて、中山英之さんのインタヴューの感想です。
建築家が建築の計画を決定しているようで、実は、他の条件などが建築の誕生に影響しているというお話でしょうか?建築家が「決定」することにより、新しい何かへのリンクを「切断」してしまうのではなく、柔軟に水を受け入れる海岸線のように臨機応変さが必要ということでしょうか。積極的に他の作用力を利用することで、自分の能力を引き出してくれたり、補助してくれる力になるという話だと理解しました。

 このお話の一部と関連しそうな本を書店で見つけました。(コアメンバーの方は何でもご存知ですが、僕には発見です(笑)。)『環境ノイズを読み、風景をつくる。』(宮本佳明 編著)です。古墳の配置と活断層の形が実は関係があるという発見など、目に見えない過去の力、土地が持つ歴史が現在に与えている影響をまとめた本です。宮本さんがこの「環境ノイズエレメント」と名付けたものを扱う活動とほぼ同時期に、中谷礼仁さんが古墳の影響で街が形づくられているという大阪を発見し、「確かにそこに居るものの存在」を感じてつくられた「歴史工学」という学問も、中山さんがいう「建築家以外が決定すること」の要素の一部に影響がありそうだと思いました。

 中山さんがお話されるのは、環境的なものばかりでなく、施主の意見はもちろん、施主がその住居で過ごす生活の仕方や施工者の意見、出来てから気づいた事も含めて建築の設計作業に組み込む方が良いということでしょうか。生活を豊かにする為のスタート地点が竣工の時で、竣工で建築が完成した訳ではないと。形式上は完成しているが、実際は未完成であって成長する建築が良い建築ということでしょうか・・・。

 ふと、その場の成り行きに任せて図面レスで建築をつくるという試みをイメージしました。それと、藤森照信さんが扱う、素材を活かした建築が、全てをコントロールできないという点で見ると、中山さんがおっしゃっている「決定」の比重を大きく変える原因となり、藤森ワールドをつくりあげているという事も考えました。

文章にしていくと、だんだん解らなくなってきました・・・。感覚だけで考えているせいですね。

 こうして建築系ラジオの皆さんに向けて自分が考えた事を文章にしていくと、頭で解ったつもりでいたのが、よく理解していないことに気づきます。正解を求めずに模索しつづけることが大事なのだと言い聞かせて、月日が経った時に、「そういうことか!」と気がつける人間になりたいと思います(笑)。日本の伝統的な文化は、基本練習といって同じ動作を反復する文化があります。ipodで反復すれば、少しは咀嚼できてくると思います。良い意味で、頭をスポンジ状にしなければいけませんね。(笑)

(思ひ出のコメントー初出:2009.3.28)

・関連項目
中山英之インタヴュー
絵に描いた空間(前半)

中山英之インタヴュー
絵に描いた空間(後半)

出演者:武智仁志

いよいよ最終回です。
最後は参加されたみなさんからの討議の感想です。

北川さんの質問に対して藤村さんが、愛なき力と力なき愛が切れているのが現代社会だと思っていて、2項対立を乗り越えるためには愛と力をつながなきゃいけない。それこそが批判的工学主義である。とおっしゃっていました。愛ある建築家が力を持てば風景が変わるということですね。

でも・・・、そうなのでしょうけれども、今のプロセスではスピード重視に偏ってしまって、結局は力でねじ伏せることも可能な組織力になってしまう可能性も否定できないと思います。反復をやめるタイミングをどう決めるのかは利害関係が出尽くして、体力的、物理的な限界がきたらということなので、その限界が本当に限界であり得るものなのかという疑問も残ります。特に大きな組織になっていくと藤村さんの意図が末端まで行き届くのかどうか。かと言ってなにもやらないでいると想像の世界で終わってしまうのでしょうけれども・・・。

五十嵐さんは、議論の場にでるのは必要で、既存のメディアがもはや議論ができないことに危機感をもっているとおっしゃっていました。「建築女子批判」の話題とも通じるお話ですね。藤村さんが議論の場を建築業界だけでなく、批評家であり哲学者でもある方達と接続した行動力はすばらしいと思います。この討議シリーズの展開は、建築系ラジオのメイン活動になっていますね。決して情報を流しているだけではないところが、新しいメディア足りうるということですね。

彦坂さんの感想が印象的で、主張には共感するが、作品が主張と結びついているわけではないとおっしゃっていました。方法論の落としどころが、無理をしなくてもすでに工務店等が落とし込んで成立しているものだと。落としどころと方法論が微妙に違うと。そこがどうも引っかかるところです。藤村さんの論理の建築家は石上純也さんのつくり方ではないかという事も。五十嵐さんが部分的には含めているけど普遍解にはなり得ないとおっしゃっていました。藤村さん自身も新体制としての組織の形態とは違うとおっしゃっています。なるほど、どんな新しい建築が生まれてくるのかという期待だけで見ていると、既存のものがもしかしたら対応しているのかもという視点が抜けますね。建築界の外からの目線の大切さを思いました。

倉方さんは、藤村さんの建築をどう捉えるかということをおっしゃっていました。作品論か、存在論か、方法論か。存在論を語って欲しかったと。これは、次回への前振りですね。

永山さんは、この先の展開をものでみせて欲しい。違うその先があるのかなという期待と疑問をもっている。次の作品でみせて欲しいとおっしゃっていましたね。やはり、彦坂さんの疑問点と同じ感想を持っているようです。

多分、若い人達が飛びつくのは、だれでも同じような手法ですばらしい建築ができるといううたい文句と、この手法がまだ未知のもので自分がうまくやれるかもという期待と、結果を導く手法が理解しやすいということなのではないでしょうか。でも、考えてみてください。反復をやめるタイミングをどう決めるのかは利害関係が出尽くして、体力的、物理的な限界がきたらということです。やっぱり、経験を積んだ実力者でしか良い建築ができないのではと思います。当たり前ですけど。軽い気持ちで飛びつくと危険な匂いがするのは僕だけでしょうか。藤村さんは実力があるので良いのでしょうけれども、安易に真似をするのだけは危険な気がします。要は、結果だけを求めずに、必死に頑張る方が確実だということです。

僕はギャンブルしない人間なので、しんどい方法がどうしても信頼できます。古い人間なのですね。時代に取り残されるかもしれませんね。誰にでもできるというのは難しいと思うのですが、皆さんはこのシリーズを聞いてどう思われましたか?

北川さんから、次回討論の前振りがありましたね!
まだまだ興味が尽きないシリーズですよ。

・関連項目
藤村龍至の批判的工学主義を問う!(藤村龍至vs松田達)[5/5]
出演者:武智仁志

すごいですね。
石川さんのトークの力強さ。
感情的ではありますが、コアメンバーの皆さんにも全然臆せず語れるトーク力は、なにか、磨けば光る原石のような存在ですね。

建築系ラジオの配信と、石川さんの熱いUSTも録画ですが拝見させていただきました。僕がそれらを受けて、いろいろと考えさせられたことを書かせていただきました。
建築系ラジオがリスナーのフィードバックを、ネット上で受けていないのは、議論は相手の目を見て語るべきという信念があるのではないでしょうか。それがあたらしい討論会につながって、業界に新しい風を取込もうという思惑。受け付けないのではなくて、会って話したいと。新しいと言いながら閉じた世界の住人となっている人達を健全な議論の場に誘い込むという作戦ですね。そして、生身の人間が議論する場で建築系の「系」に業界以外の人達を巻き込んでいこうとしている意図が見えます。新しいメディアなのですが、根本には本質的な、生身の人間どうしの語らい、コミュニケーションを促しているといえます。名前が建築系ラジオなのですが、ラジオで終わらない、生身の人間どうしで語り合いたいというのが根本にある気がしますよ。

ネット上でフィードバックを受けていない(現状ですけど)ということは、これから建築系ラジオに匹敵できるようなサイトが生まれる可能性も秘めています。既にある先輩サイトの「archi-radio」さんや、「YSSK TIME」さんのようなサイト、そして、もしかすると石川さん自身が運営するポッドキャストのサイトやまたは今までの人が思いつかなかったような、これら以上のものが生まれる事を、実は期待されているようにも見えます。

建築女子が、かわいそうという意見もありましたが、僕から見ると、まったく可哀想ではないんです。すごい!学生で展覧会をやってのけた!という尊敬の気持ちです。そして、建築女子というネーミングへのご批判、石川さんがラジオでおっしゃていた負の想像をしてしまうと、大人の気まぐれに学生がつきあわされているようにみえてしまうかもしれません。でも、純粋に彼女達はチャンスをいただいたのだと思います。それをどうするかは、チャンスを与えられた彼女達が今後、どう行動するかにかかっています。彼女達も展覧会の会場にいて、批評してほしい、意見を聞きたいとラジオでも言っていました。彼女達にとって、展覧会はゴールではなくて、道のスタート地点に立てたという状態でしょう。石川さんが展覧会に行っても相手にされなかったとおっしゃっていましたが、疑問に思うことは、その場で彼女達に投げかけてみたらよかったように思います。

建築系ラジオの関係者は、コンテンツの無編集をモットーに建築系ラジオの活動をされているので、リスナー側が配信側の意図を誤解するようなことにはなっていないと思います。というか、コンテンツへの反応に対して、「君のは間違っている」、「君のは正しい」という評価はできないと思うのです。受け取り側の感性によっていかようにも応用できると思うのです。

僕にとって最悪だったコンテンツ「建築人に効く北川啓介の剃るだけダイエット!」なんて、そのまま聞いたらあほらしくて聞いてられません(笑)。でも、笑って聞けるという人も中にはいます。ただ、剃ることと、ダイエットを結びつけるなんて発想は、他の人には思いつきません。そう、そして、実践しないと決して共感できないのです。タイトルにもあるとおり、無批判的に行動しなければ理解できない内容でしょう。僕はこの件に関しては行動できませんが・・・。

こんな風に、受け取る人それぞれの感性でいかようにも素材を料理できるのです。答えを教えて欲しいではなくて、教えられた事=正解!でもないと思います。応用が肝心ですね。世の中の事において、たった一つの正解はないんじゃないでしょうか。過去の歴史も発見の度に日々変わっていますし、算数でさえ、1+1=2ではないかもしれません。(1という箱の中には複数の数字が入っているとか・・・ひねくれていますか・・・?)テレビや一般のラジオでは編集が入りますので、無意識でも事実が間違って伝わってしまうことは否定できないです。

松田さんの言葉から「実験」という言葉がでましたね。実験という言葉がもつイメージから良くない印象を持ってしまった人は多いかもしれません。でも、社会に出ると、人は常に評価されています。パブリックな場で発言したり、提示すると、他人の目に触れる限り、当たり前に批評されます。会社にいても、給料と見合う働きができているかと監視されています。家でお父さんをしていても、いっしょによく遊んでくれる楽しいお父さんかどうか、子供達から批評されています。たぶん・・・。つまり、結果は後からついてくるんです。

テレビゲームをするように、失敗したらやり直して、成功の経歴だけを書き込んでいくことは、人生においてできません。失敗の経歴も沢山書き込んでこそ人生だと思います。何事も無く成功している人なんていないと思うんです。事前にシナリオを伝えて欲しいというような希望は、彼女達のためにならないのです。

僕が担当させていただいているコーナーは、建築系ラジオで配信されたコンテンツに対する感想なので、配信あってのコーナーです。そう、相対的に存在できるコーナーなんですね。石川さんの発言は、建築系ラジオに対して、やはり相対的なものです。でも、強い主張力がありますので、ネガティブな反応に対して責任がとれていないと思うならば、対抗するサイトを立ち上げてみるのも面白いのではないでしょうか。新しいムーブメントが起こる可能性もあります。

五十嵐さんは、新しい人を発掘したいだけだと思うんです。石川さんが権力を感じているという現在の五十嵐さんも、学生時代から新しい視点を模索し続けて活動されてきた結果、五十嵐さんの文章なり発言に共感したり、驚いたりすることが積み重なって、多くの人が五十嵐さんはすごい!という風になったのだと思います。活動を続けている結果がそうなったということです。それが石川さんには結果だけが現れた脅威=権力のようなものに見えるというだけではないでしょうか。石川さんが発言されたことに共感される人達がどんどん増えて大きな力を持ってくると、それが新しい脅威になります。それは、石川さんが恐れている権力と違わないでしょう。松田さんが言う「数の多数性を味方につける」と得られる権力ですね。

それに、五十嵐さん自身が自分は権力がないとおっしゃっていたのは、ある一人の個人の設計や活動を代わりにやってあげることはできないということです。どんなに五十嵐さんがフォローしようと、どんなに期待の星を持ち上げたとしても、建築を考えて実現するのは建築家自身ですので、それを他人がどうこうすることは不可能です。つまり、建築家の人生を他人が代わりに歩んであげることはできないという意味ではないでしょうか。

すみません。長々と偉そうな事を言って。
でも、石川さんは感情をコントロールできるようになれば、面白い人だと思います。今後のご活躍を期待しております。失礼しました。

・関連項目
51A:建築女子批判?石川翔平が大いに吠える![1/2]
出演者:武智仁志

 「アーキソフィア」のレクチャーコーナーでは、「はじまり」「水」「無限」「単位」「空気」と、区切りにくくて、扱いが難しい題材について話が進んでいますね。

人が家を欲する理由は、安全・安心が第一であって、今の建築が持っている床、柱、壁、天井、屋根、窓などは安心感に付いてくる物なのかなと思いました。極端な環境、例えば宇宙空間ですと、体の周りに必要なのは呼吸できる環境です。呼吸できる環境をどうつくるかというのは、技術的な面が大きく、現在では堅牢な素材で空間を囲んでいますが、本当は、空気を重力のような機能によって体の周辺に集められるような装置でコントロールできれば良いのです。

もし、呼吸できる環境を壁や膜などのハードな要素でコントロールするのではなく、流体力学を駆使して外皮がなくても環境をコントロールできるならば、建築がなくなるのだろうか?ということを考えました(笑)。

建築を考えると、体を包んでいる空間が、連続して一つの建築となっているか、それとも、森山邸のように個人の体を包む空間が集まっているか、という環境のつくり方で、壁などの各要素を集めて構成していますね。体を包めない程の小さな単位で集まった空間というのを考えると、なんだか面白そうです。

石上純也さんの、「神奈川工科大学KAIT工房」は、「場」を家具や柱の隙間でつくって「見えない境界線」で体を包む単位を扱っています。ただ、やはり外壁はガラスです。ガラスに映る樹木の虚像の存在が、ガラスの存在をあいまいにしていて、面白い効果を出していますが、快適な空気環境を守るには、本当はなくてもいいんだけどガラスが入ってしまいます。映像を映すスクリーンとして見ると面白いですけど。2005年のミラノで行われたTOYOTAのLEXUS展は、会場を霧で満たしていましたね。体を包めない微粒子を集めて体を包んでいます。視界をコントロールして境界線をつくっています。発想が面白いです。

日本の環境が育てた空間である、縁側や軸組構造は壁のような「立面」を少なくすることで領域の単位に広がりを持たせています。ただ、冬は寒いです。日本の伝統的な空間が、やはり気持ちがいい空間だと僕は感じています。環境を区別するのではなく、環境を受け入れるが、まったく新しい空間はできないものでしょうか。服を厚着して我慢しますか(笑)。なんだかアーキソフィアコーナーが想定していない感想になった気がします・・・(笑)。

(思ひ出のコメントー初出:2009.4.9)

・関連項目
19B: レクチャー編 第6回「単位、その1」
21B: レクチャー編 第7回「単位、その2」
24C: レクチャー編 第8回「空気、その1」
29B: アーキソフィア・レクチャー編 第9回「空気、その2」
出演者:武智仁志

個人的に、このシリーズに期待していたことは、批判的工学主義とはどういうもので、その方法論はこうで、その結果こうなるという概要があって(第1回の配信)、それを踏まえて、違う視点や共感等の意見を交わすものかと思っていました。『思想地図vol.3 特集・アーキテクチャ』に書いてあるその先の議論なのかと。

ところが、第2回、今回の第4回の配信を聞いてみると、プレゼン戦略についての松田さんのするどい突っ込みがありました。
例えば、
・話を単純化する
・話の3点セット化
この2点については、プレゼン手法として有効だと思っていましたが、情報を削ると情報を間違って伝える可能性の怖さも潜んでいるのですね。僕も建築系ラジオの皆さんのご好意により、コメントを書かせていただいていますが、自分の思いとは違って伝わっているとすると、このコメントコーナーの存在意義さえも危うくしてしまうのですね・・・。

話にでてきた危険な内容が、
・知名度について
・機械に見立てる
の発言についてです。その場にいなかったので、なんとも言えない立場なのですが、この点でも、情報を発信する側と受ける側の認識が違ってくる可能性があるのですね。ラジオ中でも、議論があったのですが、語尾ひとつで意味が変わってしまっている過去の発言事例もありました。

批判的工学主義のプロセスが単線的であるという松田さんの指摘は、僕も共感します。単線的にすると、一つのことを洗練させられる上に余計なことをしなくて済むから、スピードもアップするという理屈は理解できますが、果たして良いものができるかどうか。可能性を狭めてしまって効率のみ優先されるような気がします。あっ、でもとことんまでそれをやった事が無い僕が偉そうに言えないです・・・。想像するより実践ですよね。

藤村さんが、「知らないで批判する人が多い。印象批判が終わったあとで議論ができる。」とおっしゃっていました。松田さんはもちろん、よく理解されているとおっしゃっていたので、僕のような人がちゃんと勉強しないといけませんね・・・。
こういった、熱い議論を何度も聞けるというのも、建築系ラジオの魅力ですね!

・関連項目
藤村龍至の批判的工学主義を問う!(藤村龍至vs松田達)[4/5]
出演者:武智仁志

藤村さんは、元は建築の専門外ということで、大学院の時に図面が描けなかった時代があったということをお聞きし、びっくりしました。まあ、描ける・描けないというレベルが違うのでしょうけれども。

効率性と固有性を両立させるにはどうするべきか。ものづくりをしている人達にとって、この課題はいつもつきまといます。でも、昔から「二兎追うものは一兎をも得ず」ともいいます。新しい方法論は常に刺激的ですが、本当に両立が可能なのかは、今後の活動を注目していくしかありません。

個人的な例で申し訳ないのですが、実務経験のない建築ではなく、今の仕事でも効率性と固有性の壁を実感できます。早く正確に出すことを目標に、標準化やデータのユニット化を今まで何回も改善プロジェクトでやってきましたが、なかなかうまくいっているとは言えない状態です。より良い完成度を目指してこだわっているとどうしても時間がかかってしまい、そうこうしているうちに工程日限を迎えて、良くもないけど悪くもない、問題はないからこれでいこう!となってしまいます。
(こんなこと言っていいのか・・・。)

僕なんかはこの程度なのですが、一人すごい人物がいます。
実装するべき用品リストをじぃ〜っと眺めていたかと思ったら(けっこうな時間にらめっこしています)、マウスをおもむろに動かし始めるやいなや、ババーっと図面を描き上げてしまうのです。しかも、現場でも後戻りがほとんどない。普通の人(僕)なんかは、描きもって、あーでもない、こーでもないとCAD上で配置移動を繰り返してやっとましな図面ができるのですが、道具がCADなのにやり直しを前提とせずに頭の中だけで設計してしまいます。こういう人達が多分、アトリエ派に多いと思うのですが、こういう能力を高める手法では日本の風景を今の社会では変えられないということですね?でも、時代が経つとアトリエ派のは、味のある建築になると思うのですが、完成した後のたたずまい感や気配感が「BUILDING K」からは漂ってこないような気がします。(建築を建てた事ない人間なので、むなしいセリフです。建築そのもので語れる存在に強く憧れます・・・。)

批判的工学主義のプロセスに対してするどい突っ込みが永山祐子さんからありました。
超線形設計プロセスに対して、反復をやめるタイミングをどう決めるのか?というご質問でした。利害関係が出尽くして、体力的、物理的な限界がきてタイミングが決まるとおっしゃっていたことが、結構、ショックで、批判的工学主義のプロセスとしては、まだ完成形ではないんだなと感じました。
批判的工学主義では、皆が共有できる明確な手法を使うのが良しとしているとはいえ、あまりにも普通の出来事で・・・。この説明は藤村さんらしくないというか、藤村さんも人の子なんだなと少し安心?しました・・・。

気になったのが、超線形設計プロセスのデータは、フォーマットなるものが存在するのかどうかということです。すべてゼロの状態で敷地条件から要望までを拾っていくのか、それともある程度までは定型のものが存在して、検討中に項目を付け足していくのか。スタートの地点が違ってくるのでスピードに影響があると思うのですが、ここでも相反する存在どうしを調整していかなければならず、ゼロからだと時間がかかるし、フォーマットがあると、導かれる答えがある程度限定されてきそうですね。

ここで思い出されたのが、宮脇檀建築研究室の建築設計調書です。与条件を整理分析してプランを具現化していくための基礎データだそうです。(出典:『建築知識2006年6月号』P104)
細かな情報を調査して、設計に望むという点では同じだと思うのですが、こういったデータと藤村さんがおっしゃるデータの違いがよく分かりません。与条件と建築模型のアーカイブを対応させているだけではないのかなと思いました。

討議に参加された皆さんも、疑問の声がいろいろとありましたね。五十嵐太郎さんがご指摘されたように、厳しい戦いになりそうです。

でも、今回のような討議の場自体が、藤村さんのデータベースに取込まれている気がします。次回の講演会等では、今回指摘された部分が分析されて、さらに隙のないマシンガントークが炸裂しそうですね(笑)。

・関連項目
藤村龍至の批判的工学主義を問う!(藤村龍至vs松田達)[3/5]
出演者:武智仁志

2007年7月に、米田明さんの講演を大学の特別講義で聞いた事がありました。当時、「建築と野生」という題で講演されていて、過去のことが現在の建築にどんな影響を与えたかという内容でした。岡本太郎とコルビュジェ。つながっていないようでも、民族学の視点が二人に同じような行動を促し、各界に影響を与えていることを知りました。コルビュジェ最期の作品である「ヴェニスの病院」は幼少時代の経験がもとになったという分析でした。岡本太郎氏が万博で制作した太陽の塔の黒い過去の顔が、万博のお祭り広場に向かって立っていたのは、岡本太郎の思惑だったのではないかという話も面白かったです。講演当時の個人的な議事録を読み返しますと、

・日本の建築→多義的なもの→現代建築へどう生かすか?
・庭に興味がある。
・現代へどう生かすかは常に考えている。
・過去を考え尽くしたら、現代へ。
・先人の教えはなんだったのか、常に過去のものにせず新しいもの
 として考える。
・過去のものを意図的に現代建築へ→尺度(とリンクして材料)尺
 度ありき。
・日本の庭に感じる尺度。緻密に設定されている。距離感。
・体の感覚のなぜを常に考える。

と、建築系ラジオで述べられていたことに通じる内容をすでに言われていました。最後は、「K-Clinic」という当時の最新作の写真を見せていただいて、すさまじいキャンチの様子が、それまで静かだった会場をどよめかせたことを覚えています。

さて、今回のお話も、非常にワクワクする話でした。MP3のラジオだから聞き直せるのも頭に入ってきやすく得した気分になります。
 枯山水を例に出されて、「見立て」による具象的な側面と抽象性、そして日本的な構成原理への還元のお話。僕は、日本的な、自然と背筋をシャキッとさせたくなるような凛とした空間と、閉じこもった感覚が少ない空間が気持ち良いと思っていましたが、それが何故かはまったく考えきれていません。それを、2つの配信を併せて40分程で「プチ崇高(=凛)」と「やぶれ(=開放感)」というモヤモヤが残らない分析を展開されるので聞いていてスッキリしました。具体的な建築空間としての事例は、これからの米田さんの作品を楽しみに待つだけです。

その他にも気になるキーワードがありました。
・石のような(存在の)建築
・目で見ているもの、体で感じているもの、思考
・スケールが無限大のものとリンクし、重層している感覚
 (孔の多重化?)

あり過ぎて書ききれないくらいです。「借景」という言葉はよく使いますが、遠くのものを近くに呼び込む孔という見方は斬新でした。
 それから、京都御所の松に対して、ここまで考え抜く人は他にいるでしょうか?都心にあって外から見ると景色としてとけ込んでいるのに、中からみると別の空間にある松。外からみる松と内から見る松は違う、と。松は松として、そこに突っ立っているだけなのに、ある境界のあちらとこちら側では、その松がまったく別の存在に見えるというのは、スゴイ発見ですね。そこに石のような存在の建築がつながっていくのですね。狭小住宅のお話がでましたが、日本の住宅事情を問題としない、逆に日本的で特徴的な空間に変える方法が見つかる可能性大ですね。それは、同じような都市への普遍性を持っている可能性がありますね。外部を取り込むのか、それとも、隣の内部空間を引き寄せるのか、孔は上か下か、虚像か、それともまったく違う手法か・・。テクノロジーの真行草も気になります。

ぜひ、また米田さんのインタヴューをお願いいたします。

(思ひ出のコメントー初出:2009.2.15)

・関連項目
米田明インタヴュー
日本の建築空間・その1〈やぶれる空間〉について

米田明インタヴュー
日本の建築空間・その2〈プチ崇高〉について

出演者:武智仁志

南洋堂さん。
そう、そこは建築に携わる者にとって、心のオアシス。
行った事ないけど(笑)。

いつもネット通販でお世話になっています!和書、洋書ともにすごい品揃えですよね。
もちろん、建築系ラジオを聞いて、南洋堂さんの存在を知ったのですが、参ります。建築系ラジオと結託して、欲しくなる本を宣伝するんです。

ネットで本を買う理由があります。
僕の地元の中心街にあった、大型の書店が閉店してしまったという嘆きを建築系ラジオの皆さんにしたことがあるのですが、その後、別の本屋さんが専門書のみの扱いで同じ場所に来てくれました。
専門書ということで、マニアックな本がズラリ。本屋さんの醍醐味は、やっぱり本を手に取って中をパラパラと見れることですね。ただ、中心街って近くの駐車場も有料ですし、なかなか時間をとって行く事ができません。
まあ、頑張れば歩いてでも行ける距離ではあるのですが、買う時はドッサリと買いたいので、歩きで行くと重いし、また今度と思っているうちに、南洋堂さんで買ってしまいます。ネットですぐに手続きが済んでしまいます。2日もあれば手元に届きます。地元にも貢献したいのですが便利なので、つい・・・。
他のことに時間を費やしている間に本が届くので、ラジオと一緒で、「ながら買い」ができるんです。こんな風に、ネットで本を買う理由は、実は小さなことなんです。

ネットで本を購入するにしても、どのお店で買うかを選択しなければなりません。この選択基準は歩いていける書店へ行くかどうかで重視された小さな事ではなく、「本を買う=コレクション」の収集魂に火を付けられるかどうかの戦略が関係してくると思います。
なんせ、ネットでの本購入は、中をパラパラとめくる事ができません。収集魂をくすぐらなきゃならんのです。お店の品揃えは当然のこと。
南洋堂さんを利用させていただく前は、Amazonさんを利用していました。
建築系以外の本等は、今でもAmazonさんを利用させていただくのですが、南洋堂さんの本の魅力というものがありまして。
そうです、サイン本です!
だめなんですよー、サイン本残りわずかっ!って言われると。
サイン本のうえに残りがわずかですよー。数量限定とか。そりゃー欲しくなりますって。アイドルのサインは別に欲しくないですけど(ブロマイドは欲しい・・・)、建築家のサインはウキウキします。

僕が直接、建築家の方からサインを頂いたことがあるのは、安藤忠雄さん。
ナマ安藤さん、その時の僕はまだ建築の勉強を始めて間がなかったし、性格上、喜怒哀楽を押し殺してストイックに生きて来ましたから、うれしさが安藤さんに伝わりきらなかったのではないかと思います。(ストイックなのが男らしいと思ってました。そしたら赤面症になっちゃったっ。)
僕の前に安藤さんからサインを頂いていた女性の方は、「わあ〜っ!大っファンなんですぅ〜」って。「握手してください!」って「喜」と「楽」を体全体で表現していました。安藤さんはもちろん、気さくに握手をなさっていました。

建築家がちょっとしたことで相手の心をつかめるかどうかは、やっぱり人格とかユーモアですね。もちろん、講演会前後の即売会の本にサインをしてくださいます。

安藤さん:「名前なんていうの?」
僕:「武智仁志です。」
安藤さん:「んじゃ、名前2回書いちゃおう。」
スラスララ〜。(安藤さん、僕の名前を2段で書く。しかも英文字で。)
僕:ありがとうございます!

もう、この時点で安藤さんの大ファンに(笑)。「Hitoshi Hitoshi」って書かれると、はは〜安藤様〜って気持ちになります(笑)。
実を言いますと、コンクリートの建築は、冷たくて圧迫感があるので(両手でギュ〜って押し広げたくなります。)、あまり好きではなかったのですが、
コンクリートもいいかも。と思いました(笑)。

誤解を恐れずに言いますと、安藤さんがいいのは、やっぱり人間性ですね。だから人気があるんでしょう。建築家として売れるか売れないかは、ここが大きいような気がします。
テレビに出ていたのを見ていても、人間的に好感が持てました。言ってることがすばらしい!
でも、やっぱり身内にはキビシいんでしょうね・・・。

後付けですが、大物建築家から1回のサインの機会に名前を2回書いてもらえるコツがあります(笑)。
サービス心旺盛な安藤さんだからかもしれませんが、講演会前に、即売会用の本の山に埋もれてせっせとドローイングを描いておられました。
そのタイミングで行くと、書いてもらえます。少し早めの時間ですね。安藤さんにも心のゆとりがあるはず。講演会が終わった後では、聴衆がどっと押し寄せていて、田舎暮らしに慣れている僕なんかは、とても並ぶ気になれませんでした。すさまじい・・・。
大物建築家のイメージは、いつもご機嫌ナナメな人であると勝手に思っていたのですが、とても気さくな方でした。

そうそう、南洋堂さんの本についてでしたね。
南洋堂さんのサイン本を買いあさっていると、ふと建築家の人格が表れていることに気づきます。

安藤忠雄さん:
丁寧です。まず、右上にご自分の建築作品名、ど真ん中にドローイング。ドローイングは、青系の色鉛筆を2色。濃い色と淡い色。今見ているやつは、桜を表現したピンク色が画面下にあります。そのピンク色が建築作品に反射しているような重ね塗り。左下にサインの日付、そして真ん中から右側にかけて名字を英字で書いています。西洋的というか視覚に訴える表現です。手間を惜しまず描いておられる雰囲気です。

竹原義二さん:
おやっ?サインがないっ!南洋堂さんともあろうお方がサインなし本を送ってしまったか・・・?っと思いきや、最後のページに豪快にサインされていました(笑)。 「本の最初の方にサインがあるはず」という経験からの常識が覆されました(笑)。こういったちょっとしたサプライズが建築設計する人にはきっと必要なのでしょう。 サインは、また独特でして、墨のようなゴツいマジックで右上にサイン日を3段に分けて書いています。そして名前は紙面の左下から右方向へパースが効いているような文字で書かれています。竹の文字が縦に長く、「二」に向かって小さくなっています。シンプルなんですけど。味のあるサインです。

貝島桃代さん:
まるで、最初から印刷されていたかのような、かわいらしい犬?のような動物が中央より少し下側に描かれていて、その下に、味のある文字でご自身のお名前を書かれています。絵と周りの空白の比率が程よく、これから絵本が始まりそうな雰囲気です。女性らしい丸みを感じるサインです。

内藤廣さん:
本のカバー色とマジックの色彩を合わせていて、左下から右上へと円弧が断続的に流れて行くようなサイン。名字を英字で書いています。Naitoの「t」の線が本をはみ出していて、用紙の領域を飛び出しています。シンプルでカッコいいですね。文字に動きがあります。紙面サイズなんかにコントロールされていません。 「t」のはみ出した線が、紙の境界線をものともしない感じです。絵のようにも見える線のみの構成が、シンプルなだけに深い意味を探りたくさせます。

原広司さん:
本のタイトルの下に控えめに書いています。日付がまず書かれていて、次の段に英字でフルネーム。そして、本の価値をとても高めていると思われる「はんこ」付き!「廣」と読めるハンコです。あれ?本名ですか?契約書のようなサインです。南さんがラジオでおっしゃっていたように、謙虚さがにじみ出ています。大物なのにっ!確実さと安定感があります。

隈研吾さん:
隈さんの建築は、僕のツボで好きなんですが、サインはミミズが這ったような文字です・・・。ちょっとガッカリです。あーでも、負ける文字?・・・そういえば、主張していない形をしています・・・。(なんてこった。大好きな建築家に対してこんな失礼なことを・・・。)

五十嵐太郎さん:
建築系ラジオのリスナープレゼント。シャッフルトランプに堂々とサインされているのかと思いきや、サインが無かったので、トランプを送る為に入れていた封筒にサインされていたものを後生大事に取っています(笑)。トランプにサインされない控えめなお方です。ただ、残念なことに、当時は雨模様の時に配達されたので、太郎の「郎」の文字がにじんでいます。
キー、くやしいー(白いハンカチを噛みながら)。

伊東豊雄さん:
買いそびれました。速攻で売り切れです・・・。キー、くやしいー!近々、愛媛県今治市の大三島に伊東さんの建築が2つもできます!見に行こうっと!

サインって面白いですね。「サイン」というだけあって、その人の性格が表現されていますね。
南洋堂さん、次はどんな大物建築家のサイン本ですか?
出演者:武智仁志

プレゼント、ありがとうございました!2度もいただけて(しかも2冊も!)大変光栄です。窓と視覚について、非常に興味が沸く内容でした。ワクワクしました。

配信前なのですが、僕の勝手な試みとして、配信前と配信後の感想を送らせていただこうかなと思います。今回は、配信前なのでトンチンカンな感想になるかもしれませんが、ご了承ください(笑)。自分の感想が建築系ラジオを聞くことでどう影響されるか・・・。(もうすでにラジオを聞いた感想を書いている事で聞き流すのではなく、聞いた事について考えるようになっています。僕にとって影響大です。)


僕が過去に興味を持った映画は、流行のハリウッド映画ばかりで、どんちゃんと派手なアクションものが多かったのですが、最近は、子供のアニメばかりです。『DETAIL JAPAN』2008年7月別冊の「映画の発見!」を買いまして、古い映画に興味を持ちはじめているところです。ビデオショップで借りるべきリストは作ったのですが、まだ見る時間は取れていません・・。

今回、頂きましたプレゼントで紹介されている映画は巨匠の監督作品ですね。建築的な目線で映画を見る楽しみが増えました。リストに加えさせていただきたいと思います。

さて、付箋紙を貼っていただいていた五十嵐さんのコラムは、短い文章なのに興味を惹く大切な文章の宝の山でした。視覚に影響を強く与える建築的要素としての「窓」について、色々と考えてみる機会を得ました。ありがとうございます。

まず、僕が興味を惹かれる文章を抜き出してみました。

■「ヒッチコックの『裏窓』」より
・窓越しの映像
・固定された部屋からの視点
・スクリーンとしての窓
・肉眼ではものたりなくなった
・窓はカメラと一体化
・中庭越しに
・音や会話までは聴こえない
・鑑賞者を世界から隔てる防波堤
・安心な画面の向こうの世界=現実が始めて侵入する
・視線しか通過しないはずの窓から身体が現実の世界に飛び出す。
  (出典:『+CLASS 2008 秋・冬号』新日軽株式会社 2008年9月 30ページ)

■「ボディ・ダブル」より
・窓から見ているということは、逆にみているところが他人に見られているかもしれない
・窓から見えている世界=スクリーンは、必ずしも真実ではない。
・すべてが見えないことで、さらに興味がそそられる。
・部分的に隠しつつ、分節して見せる
  (出典:『+CLASS 2009 新春号』新日軽株式会社 2009年1月 30ページ)

こうして抜き出してみると、なんだかパラメータのようなものが見えてきます。
潜んでいるキーワードは、

・距離があること
・視覚以外は抑制されている状態
・視覚的な双方向性がある。
・真実の一部を切り取っている

さらにキーワードを導くと、「フィルター」が浮かんできました。視覚のみ双方向性を持っている壁。パラメータということで、建築設計の時にこれらの数値を操作してやることで、空間の内外の関係性に変化を付けられます。距離による関係性は特に大きいですね。透明な窓であっても中庭というある程度大きな寸法を持っている空間を挟んで、窓越しの映像をみると、こちらの世界とあちらの世界はまったく関係がないように感じてしまいます。視覚以外が抑制されていると、みている映像に興味があれば音などの他の五感を想像しようとします。残された五感の内のどれを許容するかで、壁という感覚の強さが薄れてきます。視覚的な双方向性は光の反射率を変えたり、不透明さの程度、角度で性質が変ります。都会の中の住宅では、遠くに見える森のみを切り取った風景のみが見えるように開口の大きさを操作する場合もあります。この切り取った森の風景は、純粋な森として開口のサイズを超えて広がっていくことでしょう。

人の目は、体外の景色を認識して網膜に映した状態では、上下が逆さまの状態で映っていると言われています。それを左右の脳が上下方向を修正して認識しているのですが、この脳の働きは、無意識で行われています。ところが、部分的に隠している映像を見ると経験から学んだ記憶や配置パターンの解読により、見えない部分を補完しようとします。これは、ほとんどが意識的な働きです。見えない部分を補完しようとする脳の働きを促す効果は、ラジオを聞くという「聴覚」に似ている働きがあるかもしれません。23Aの配信の中での五十嵐さんの言葉で「音って振動で伝わる」と聞いたときに、妙に説得力があって納得しました。これを視覚に当てはめて考えると、視覚の機能を建築的にコントロールするには2つの機能が必要なのではないかと考えました。他の四感は、それぞれ、聴覚、触覚、味覚、嗅覚とありますが、どれも「触れる」ことで1挙動で「体感」につながります。聴覚は、音が振動として鼓膜を震わし、触覚は皮膚の圧力を感じ、味覚も食物が舌に触れ、臭覚は匂いの成分が鼻の粘膜に触れます。物理的に身体の一部に直接的に触れることによって得られる感覚です。視覚のみは直接的な「触れ合い」は無しに処理されます。視覚に与えられた限定的な機能は何なんでしょう?何を意味しているのでしょうか。視覚を体感に変えるには、視覚で得られた情報に欠落部分を含めることで、脳が他の感覚より1挙動分多く働き、より効果的な建築的要素としての「窓」ができあがる気がします。あるいは、欠落以外の操作の工夫が必要です。脳が考えることで体感的な感覚に近くなるという発想です・・・。

ここまで考えると、21世紀の窓というか、壁は、「壁」としての窓を超えた存在が求められているような気がします。それは、透明なガラスを受け入れないことによる新しい建築空間。さらには、他者との積極的な関係性を楽しむ窓。

お忙しい皆様に、こんな文章を読んでいただくのは気が引けるのですが、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

(思ひ出のコメントー初出:2009.2.13)

・関連項目
23A: 建築系ラジオ新年会「美術系ラジオについて」
出演者:武智仁志

まず、名古屋人のパワフルさと独自性に明るい未来を感じました(笑)。堅くなりがちな建築系のお話に、いきなりしょっぱなから笑い声が広がります。

そうなんです、山田さん亡きあとの建築系ラジオからは「笑い」がグッと減ってしまいましたね。でも、山田さんとはまた笑いの種類が違いますが、北川さんが盛り上げてくださいます(笑)。ビートたけしさんも真っ青の(?)爆裂リーゼント姿の建築家の方々をぜひ見たかったです。(つけられました?参加者だけが得られる楽しいひと時ですね。)あと、もちろん、シークレットゲストのナー○姿も!しかも、ピンク、しかもミ○!
・・・すみません、取り乱してしまいました。

えーっと、気を取り直して・・・。
どうやら今までの趣向と違って、バトル形式のようですね。お相手は、建築系ラジオの松田さん!この形式が流行れば、子供達に人気のカードゲームのようなものが建築系ラジオから生まれたりして・・・。あまり白熱すると、何々派なんて、派閥のようなものが生まれるとか。
でも、建築系ラジオは、内輪で固めないのが良いところでして、様々な意見を持った人達が集まって常に批評しあえる場所を提供しつつあるので、もっと広がっていけばいいなと思います。


■藤村龍至さん

今回のメイン出演者である藤村さんの印象は、「礼儀正しい知的な人」です。まずご挨拶をいただきました。恐縮します。それから、藤村さんの他の建築系ラジオのコンテンツをお聞きになられた方は分かると思いますが、マシンガンのようなトークをされる方ですので、藤村さん自ら、3ヶ条をいただきました。これから、このコンテンツを聞かれる皆様、藤村さんの講演を聞かれる皆様のために、先走ってメモしちゃいます。
それは、

1.メモをとりながら聞いて欲しい
  議論が分かりやすくなる
2.質問は考えながら聞いて欲しい
  後でよくある質問ばかりしてしまうから
3.最後まで残る(コンテンツでは最後まで聞く)
  終わった後が重要

だそうです。
メモをとるのは、講演会に行くと毎回とるのですが、藤村さんのコンテンツは、建築系ラジオで聞き直しても追いつかないですもん・・・。

でも、藤村さんは、要点をまとめてトークされています。だいたい、3つのポイントを伝えてから、具体例を挙げられています。プレゼンを聞く側も、心構えがしやすい手法ですね。勉強になります。


■批判的工学主義とアーキテクト2.0

藤村さんが、「批判的工学主義」を唱える背景に、育った環境が大きいことが分かりましたね。住んでいた場所、1990年代の時代背景、建築家を脅す社会学者の存在(笑)。建築家としてこれからやっていこうかという時にこれだけ重なると、深読みせずにはいられないですね。これらの環境が藤村さんの感性を鍛えたのですね。

不動産やマンション、集合住宅は、建築ではない、芸術ではないという空気に違和感があるというセリフが印象的でした。風景を濃密にしたいというお話の裏返し的な言い回しですね。批判的工学主義が面白いのは、相反する内容が同時存在できることを目指しているところです。経済も含めて、すべてのものを建築の環境条件として捉え、どちらに偏ることもなく設計を進めようということですね。「批判的工学主義」では、建築の存在は後からついてくる事実として捉えていて、設計手法としての宣言ではないかと思います。今のところ、成果物である建築が「純粋機能主義」や「反機能主義」と大きく違っている実感は無い気がします。メタボリズムとくらべると得られた建築の形態が素人目に違いが分かりにくいかもしれませんね。だからこそ人間が生活を営む背景としての建築になり、受け入れやすい存在になり得るのかもしれません。

また、匿名的に無批判的に社会の動きに従う設計手法と、似たような設計期間と条件とコストで正確に建築を再構成できなければ建築家が都市で建築をつくる意味をみいだせないともおっしゃっていました。建築家が求める理想と現実。建築家として生きていく時に逃れようも無い大きな問題です。生きていかなければならないですからね。

ここまでは、以前に建築系ラジオで紹介された本『「新しい郊外」の家』を書かれた馬場正尊さんが実践されていることと共通点があるような気がします。不動産業務も設計に取り込み、施主が一番気にするローン問題、生活拠点と建築の関係を積極的に設計業務に取り入れられています。

ここからが、「批判的工学主義」の特徴です。
「単純に反復される建築の希薄感に抵抗」するためには、その反復スピードを超えた上でより良い建築を構築していかなければならないですよね。そこで、藤村さんは3つの現象を発見され、それらの定義をされています。

1.建築の形態はデータベースに従って自動的に設計される。
2.人々の振る舞いは建築の形態によってコントロールされる。
3.ゆえに建築がデータベースと人々の振る舞いの間に位置づけられる。


ということは、建築とは、データベースを可視化したものであって、ただの仲介者ということでしょうか?プログラムではなくて、データベースというところがミソで、反復性をはらんでいますが、つまり、データを複雑に組み合わせることによって新しい建築をつくろうとしているのですね。アルゴリズム的手法のような、量によって質を得る手法でしょうか。

でも、データベースって、成果物として存在しているものですよね。そのデータベースはどうやってつくられるのかが重要です。それは、歴史とか、経験とかに頼らざるを得ない気がします。(どちらも大切です。歴史を認識して再解釈すると新しい視点が発見できるのですね。歴史を鵜呑みにしない。勉強になります。)あーでも、ワンちゃんを数代交配を繰り返して新種をつくるように、より多くのデータベースによって新しい成果を得られるのかもしれません。結局、アトリエ派も設計者の頭の中のデータベースを掛け合わせて新しい成果を生み出しているのでしょう。その結果、進化が起こると。

んっ?アトリエ派がアルゴリズミック的な手法を使えばそれは、「批判的工学主義」を実践していることになるのでしょうか?それは、つまり「アーキテクト2.0」の存在になると。

ゼネコンや大手設計事務所もデータベースを多く持っていると思うのですが、なぜ大手と同じデータベースを使う「批判的工学主義」がそれらと違うのかは、今後のシリーズ配信で次第に明らかになってくるのかもしれませんね。
今後の配信が楽しみです!

・関連項目
藤村龍至の批判的工学主義を問う!(藤村龍至vs松田達)[1/5]
出演者:武智仁志

■皆さんへの印象について

梅林さんは体育会系、学生さんは、修行者のような雰囲気を持っていますね。平野さんは、知的な声質をされていて、なのに毒舌(笑)です。最後までハッキリと批判はしませんでしたが、それを言えるというのは、自分達がやっていることに対して揺るぎない絶対的な自信と信念があるがゆえでしょう。

メインストリーム。有名になった人の発言や行動へは、素直に尊敬する気持ちと、裏腹にそれを超えたいという欲望がわくものです。出来たものに対して批判することは簡単ですが、自分がそれを上回る提案ができるか否かが重要で、高松研の皆さんは、その可能性を十分に持っているのではないかと思います。


■言語化できないもの

「言語化できないもの」は非常に魅力的に感じます。共有感があって、それは、視覚的、触覚的な他の感覚を総動員してコミュニケーションしているイメージがあります。

武道も宗教的な感覚があります。師匠という絶対的な目標があって、半分は催眠術にかかっている状態で稽古をするものになっていると思います。師匠の説明は、「相手がバーンときたら、パーンと切り返して・・・」と言葉だけでは説明できない動作を示しながら説明しています。言葉だけでは分からないですが、なんと言いますか、師匠に対する信頼感とか、思想的な同意というか、なにかを常に共感できているという感じを日々の稽古で受けていました。(ものごとが続かない質なので、過去形です・・・。)

高松研の皆さんも、同じような感覚なのかな?と聞きながら思いました。師匠の鉛筆を削って授業を待つところなんかは、よく表れていると思います。絶対的な存在なんです、きっと高松さんは。

繰り返すことによって頭ではなく、体に焼き付けた所作は、無意識の状態でも繰り出せるものだと思います。それを、ドローイングの斜め45度を繰り返すことで得ているのでしょうか(笑)。寝ながらでもドローイングできるかもしれませんね。斜め45度の真っ黒な平面から建築が立ち上がる感覚は、高松研の皆さんにしか理解できないことなのでしょう。

NHKで見た、エンツォ・フェラーリをデザインされた奥山清行さんのドローイングも驚愕でした。ものの15分で仕上げたドローイングで決まったらしいです。無意識で描ける領域でないとそのスピードとできたものへの共感は得られにくいのかなと思いました。

「共感」というものは、感覚を鍛えている人間のみではなく、まったく専門外の人の心もつかんだ時に得られるというのが不思議でなりません。専門ならまだ理解できても、なぜ鍛えていない人も「良い」という判断を下せるのでしょうか?経験を通り越していきなり感覚を得ることが可能ということですよね・・?DNAに何かが刻まれていて、そのデータベースからモンタージュ写真のように検索して一瞬のうちに「良い」と判断できる源を誰しも持っているということでしょうか・・・。

建築を見に行った時に、写真だと気軽にバンバン撮って、あとで整理しようとするのですが、構図も考えて撮っていないので、ただのカタログ状態になることが僕の場合よくあります・・・。スケッチの場合ですと、描く為に細部も確認しないと絵ができないので、自然と細かい所まで生の空間で確認します。描き始めや、出来上がりの構図も考えて写真よりも慎重に絵を決めています。そして、なんといっても後で印象に残りやすいです。体も一緒に動かすことによって、経験度が高まるんでしょうね。


■フォルムについて

自転車が好きで、自転車を2台、(ロードタイプとマウンテンタイプ)持っていた時があります。好きなものというのは、その「形」もたまらなく好きです。独身時代は、部屋の中で管理していたので、ボーっと眺めることもあったのですが、そのフォルムがまた、たまらないんです。形があるものは、無いものよりも理解しやすく、愛でる対象として扱いやすいです。ザハ・ハディッドの建築も、フォルムやラインがかっこよくて、たまらないですね。

考えてみると、フォルムがある建築は、外の世界との関係性が弱くなると仮定できませんか?フォルムがない建築は、空間が解体されていて隙間が生まれ、新しい空間の可能性を秘めているように思います。そういう隙間を高松研の方達は、手抜きのような、ユーザーまかせでプアな空間とも感じていることもあるのではないでしょうか。(ラジオではモダニズム的なシンプルな建築を指していたと思いますが、隙間をも許さない感じを受けました。)閉じたフォルムの建築だと、公共的なイメージを持てない感じがします。開いていないような。あっ、それで巨大化していくのでしょうか。でも、フォルムがカッコいい建築は、これがまた、「たまらない!」と思ってしまうんですよね。

うーん、どっちが良い悪いとは言えないのですが、見るものとしてはフォルムがある方が良いです。車も同類になるでしょう。そう、コレクションしたくなる感じです。ただ、集合体としてみると、異様な空気感を漂わせる気がします。

さ、ドローイング、ドローイング!っと行きたいところですが、
今からお使いです・・・(笑)。

・関連項目
高松研究室作品展「the horizon」公開収録1
建築の地平1 展覧会とその意義

高松研究室作品展「the horizon」公開収録2
梅林克氏が語る京都の建築

高松研究室作品展「the horizon」公開収録3
京大学生の卒業設計

高松研究室作品展「the horizon」公開収録4
討議 建築の地平2

PD02: [先行配信] 〈建築の地平〉ハイライト
「《原始》を超えて《根源》へ―京都から東京に向けて放たれた、大いなる問題提起」

出演者:武智仁志

 個人的には、文字よりも声の方がやっぱり魅力を感じます。文字だと、佐藤さんがおっしゃっていましたが抽象化できちゃうんですよね。文章を読んでいる人のスピードとテンポ、声質で読んでしまうので文章を書いた人の感情移入の仕方やタメなどの特徴を再現できません。人格が伝わるというか、より生きている人間らしいコミュニケーションの方法が、声を出して伝えることだと思います。僕自身の文章から想像する人物像と実際のしゃべり方とは、人格が違うように思います。文字だと、別の人格になりすませるスキがあります。
 2009/1/28の愛媛新聞にFBI声紋分析官についての記事がありました。仲宗根寛隆さんという方で、世界でもトップレベルの声紋分析官らしいです。凶悪犯の声を分析して性別や年齢、出身地まで割り出して人物像を絞り込んでいったり、銃声音から銃のタイプも割り出せると書かれていました。
 おっ。
なんだか新企画の匂いがして来ました?
山田さんがどこの建築内にいるのか、声紋分析官のタマゴに追跡してもらう企画・・・。または、山田さんの声のかすかな高揚を聞き取って、数人の女性の中から興味がある女性をズバリ言い当ててもらうコーナー・・・。すみません、企画にもならないことを言って。

 さて、感想の本題ですが、佐藤さんのしゃべり方も魅力がありました。人間くさい感じ、本当にお酒がスキそうな感じが伝わってきます。敷地の境界を皆で共有して過ごすという提案は、プライベートを主張して閉じこもりがちになった日本人を開放する一つの方法ですね。敷地を開放するときに相手の感情もコントロールする方が、上手く行きそうです。一番効くのがお祭りムード。やはり酒の力ですか。なるほど納得と思ったのが、個人の経験のデータベース化と継承と共有です。特許のしくみが世の中にありますが、独占することで、結局は金に換えるということです。金は個人的な物欲に使われるだけですが、技術や情報や、その場を他人と共有することで金で買えない、幸せを感じられるものを手に入れられるような気がします。幸せの本質ですか。

 他者と関わることで建築のあり方を変えるという発想では、もう1人、気になる人物がいます。坂口恭平さんです。またまた愛媛新聞の書評コーナーで石山修武さんが坂口恭平さん執筆の『TOKYO0円ハウス0円生活』という本を紹介されていました。読んでみると以外と面白く、こんな生き方でも幸せそうだなあと考えさせられました。サラリーマンとして会社勤めをしている自分と対照的だからです。建築を学んで建築家にならずにホームレスといわれる人の建てた家を調査するという発想。凡人にはない発想です。南さんが以前の配信で、「なにかべつのものを参照しない建築の本質を掴みたい」というようなことをおっしゃっていたと思いますが、なにもない状態の生活で建築を考えた時に、なにかキッカケが掴めたりするのかな?と思いました。坂口恭平さんのその後が気になります。この本は、丁度一年前に出版されていますから、今はどうなっているのでしょうか。

またまた長くなってしまいました。新企画、頭が固いのでなかなか妙案が浮かびません・・・。寝ながら考えてみます。
それでは、また感想を送らせていただきますので、宜しくお願いいたします。

・関連項目
21A: 元建築家?佐藤敏宏インタビュー「建築あそびとその後の展開」
出演者:武智仁志

高橋堅さんのインタビュー。難しいお話でしたが、非常に面白い内容でした。視点の焦点による空間認識の違いや、線による空間認識、顔の構成、体験した空間の記憶が写真や図面の分析によって上書きされて、かつて体験した空間とイメージが相違してくるというお話でした。

パーステクティブの構成や、それの認識の話は難しいので、自分のレベルで感想を言いやすい内容である「体験した空間が、分析してできた空間の記憶に上書きされる事」について考えてみました。

記憶が書き換えられるというのは、実際の空間と分析した頭の中の空間それぞれの空間体験が別の物だということでしょう。

 例えば「服」。この時期、朝着替えるのは寒いので嫌々着替えているのですが(苦笑)、服を着る前の服という存在は、他者であるという認識が働いていると思います。単なる「服」です。しかし、袖を通して着てみると、服を着る前のイメージとは別の存在になっていて、皮膚の一部のような、自分の体の神経が服にまで延びていったような存在になります。(特に値段が高い服・・・)極端に言えば、自分の体の一部になります。

この、毎日行っている所作においても、服に対して自分の体がどこに存在しているかが変化しています。服を着ていない状態の「服」に対しては、服が占める「領域」を自分が俯瞰しています。対象である服への視線と意識の集中は直線的であり、例えば、ホースの先に付けたノズルの「ストレート」にダイヤルを合わせた時と近い状態だと思います。自分の体の一部ではないという認識が強く働きます。この他者であるという認識は、高橋さんの言う写真や、図面、たとえ立体であっても決して中には入れない模型などの存在に対する認識と同じものではないでしょうか。写真や図面で体験する空間には自分の体が入り込んでいけないという点が大きいと思います。

対照的に、実際のロンシャンの教会の中に入ると、「着た服」と同様に体の一部として、皮膚の延長として空間が認識されます。もしくは、建築空間に体が取り込まれている状態です。ホースの先に付けたノズルが「キリ」に合わされた状態で、そのキリでシャワーを浴びている感じでしょうか(強引・・)。自分の体を包んでくれるスケールが何かを感じさせる作用をしていると考えます。

それにもう一つ、写真や図面による分析は、体を使いません。特に下肢をフルに動かしながら卓上で分析することは殆どないでしょう。NHKのテレビで、体を動かす事によって脳が刺激を受け、脳が成長するという番組を見た事があります。体ありきで脳が成長すると言うのです。実験で、仮想の赤ん坊に一定の運動と、関節の方向のみをプログラムして連続して運動させると、それ以外の命令はプログラミングしていないのに、最後はハイハイの姿勢になったという内容でした。

このことをロンシャンの体験に照らし合わすと、体を通じて無意識に感じられる情報が、高橋さんの興味をひいた正体なのでしょう。建築の内部をただ「歩く」だけでも、足の裏から床が「硬い」等の情報が入ってきたり、皮膚を伝わる風が建築の雰囲気を伝えたりと五感が駆使されることにより、頭の中の仮想体験とはリアリティが違ってきます。(ロンシャンに行ってみたいです。)

まとめると、
 1.空間の中にいるか、外にいるか。
  (スケール感、皮膚との距離感)
 2.五感を刺激する動作を伴っているか。
が建築体験を別のものにさせる。この考えだと、体験を書き換える要因として、奥行き感は別の問題ということになります。

うーん、まとまっていますかね?なんだかおしいところまで来ているような、検討違いのような・・・。ロンシャンを特定して感じた体験的記憶の正体までたどり着いていませんね。・・・高橋さんの分析を期待します(笑!)

今、「建築国際展」の配信を聞いている最中です。知らないことだらけです。建築を勉強しだしてから、なんだか長生きしたくなりました(時間が足りません)。

また、感想をメールさせていただきます。
今年もよろしくおねがいいたします。

                   2009年 1月 9日
                 厚着が好きな学生 武智仁志

・関連項目
高橋堅 インタヴュー 円環するパースペクティヴ
出演者:武智仁志

コンペの状況を聞けるのって、エキサイティングですねっ!
まるで、自分も参加しているようで楽しんで聞けました。それにしても、最終審査まで残られた皆さんは、レベルが高いです。どれも聞いていてワクワクしました!

ラジオを聞いていると、普段は、とても視覚に頼って生活しているんだなと、認識できます。TEPCOのコンペはとても面白いものでした。視覚で得る印象と聴覚で整理した情報は、本質への近づき方が違うように思いました。
審査員の方々は、結構、耳からの情報に影響されるのですね。天井裏と言ってしまうと、「なんだ、天井裏か」って思ってしまうのですが、天井の物からジェンダーが滲みでてくると言われると、面白そうな印象になります。ラジオを聞いた後に各提案を見ると、まったく印象が違いました。僕がみると、天井案はとても楽しそうな雰囲気に見えます。
言葉が少ないプレゼン資料からは、それをどう読み取るかという感性により、読み取る人によって提案の広がり方が違ってきます。それを、言葉で説明してしまうと、「なあんだ」という反応に変わってしまうことが僕の場合はあります(苦笑)。すべてが見えていないけど、可能性が見えるという提案が、提案部門のプレゼンでは評価されるのかもしれませんね。
(知ったかぶり・・・・。)

「ジェンダーを考える家」というテーマが難しかったかどうかの質問は、参加者の・・・、もっと広い範囲で言うと、男女間のジェンダーに対する感覚が浮き彫りになりましたね。とっかかりとして男子学生がまず、することは、ジェンダーについてインターネットで調べることです。僕自身、「ジェンダーって何?」という状態から入りました。男子学生にとって、ジェンダーへの意識は多分ほとんどなくて、まずジェンダーの意味そのものを調べないといけません・・・。ところが、唯一選出の女子学生は、学食の食器サイズへの違和感(学食のおばちゃんは食器の使い分けが面倒じゃないのでしょうか?)など,経験を元にしたジェンダーへの意識をすでに持っていました。実感としてあるんです。ジェンダーへの意識を拾い集めなくてはならない人と、常に意識がある人とでは、コンセプトを導く視点が違うように思います。

まず、ジェンダーへの意識がなかった人の案は、異性との距離感や気配感、異性を意識させる物の操作、異性を意識させる空間構成、既に異性ごとに分けられていた場の再構成など、異性への直接的な態度を誘発させる提案が多いように思いました。社会や文化的に分けられた性というよりも、直接的な(生物学的な)男女の存在を核とした提案です。女の人は髪が長い方が良くて男の人は短い方が良いだとか、女の人はスカートをはくべきだとかいったジェンダー観ではなく、この距離に異性がいたら緊張するよねとか、デリケートな場が近接したら妙に異性を意識するよねといったような「女の人」や「男の人」そのものの存在を誇張させるような空間の提案です。

一方、常にジェンダーへの意識がある人の案は、社会や文化的に分けられた性への感覚を、建築的な要素に置き換えて空間を構築しています。今回は、阿部妙子さんの「違和感」がそれにあたります。プレゼンや、最後の一言を聞いていて一番説得力を感じたのが阿部さんの声でした。経験を元に話されていて、僕でも「ありそう」と納得できるものがありました。そして、建築的な要素である開口部を使って、日頃、感じている「違和感」を建築的に翻訳して提案されています。直接、異性を感じる構成ではなく、間接的なものへと変換しているんです。ジェンダーについて感じていることと同じような感覚を得ることが可能な空間構成を提案しています。それは、抱いている違和感を心地良く思っていない証だと思います。変換して扱わないと直視する度に嫌な思いをするという意識があるためでしょうか。そういう本心が見え隠れするのですが、建築言語に翻訳できているというのは、やはり他の提案よりもレベルが高いと思いました。不在の存在を意識させるという視点が面白いです。
ただ・・・、

常にジェンダーへの意識がある阿部さんがジェンダーに対して抱いている視点は、ネガティブな方向へ向いていますよね?せっかく変換しているのに、ベクトルを変えずにネガティブなまま変換してしまうと、果たして住宅として成り立つのかどうかという疑問を持ちました。コンペの題名を改めてみてみると、「第13回TEPCO快適住宅コンテスト提案部門」とあります。

プレゼンをラジオで聞く限り、この住宅は、なんだかストレスがたまりそうな雰囲気を感じてしまいます。そもそも違和感ですし。違和感が心地良く感じるという状況は、ありえないのでしょうか・・・・。こうは言ってますが、自分が一から提案できるかというと・・・・。ただ、このコンテンツを聞くことによって、一緒にコンペに参加しているような感覚になれました。本当に勉強になります。その他の学生のプレゼンも、その住宅に住んでいると常に悩んでいないといけないような印象を受けます。「ジェンダーを(楽しく)考える家」とか、「ジェンダーを(たまに)考える家」の方が「快適」という感覚につながるような気がします。

審査員の方々のお話を聞くと、あえて、お題に沿った提案ではないものを提案する手法もあるんだなと思いましたが、(でも、他のお題のコンペ案を流用した感じに見える提案があるようでしたね・・・。よほどの案でないと自爆の可能性がぁ。)個人的には、なにをもって快適と感じるかの個人差はあるにしても、住宅は快適であって欲しいと思います。「快適」という言葉を考えるだけでも、難しいですね。ジェンダーを意識させるか、無意識にさせるかも悩みますし、しかも快適である住宅。快適ってなんだぁ〜!?ぐぉぉ〜!

こうやって考えて行くと、住宅ってリラックスするべき場所なのでしょうか?それとも、楽しい方が良い?それとも、ただ安全に寝れる場所であれば良い?せっかくお金を払って住む住居であれば、ユートピアのような世界がそこにあって欲しいですよね。でも、そういう目標はあるのだけれど、善は悪の存在で際立つのと同じで、違和感と同居させる幸福感を導ける住宅が理想でしょうか。文化的なジェンダーに気づいて見つめたあとに、どう対処するのか。日本の建築は、日本のジェンダー観が抱える問題を見つけ、そして解決できるのか。ここからまた、一歩先に進んでいけるといいですね。

・関連項目
第13回 TEPCO快適住宅コンテスト提案部門
TEPCOインターカレッジデザイン選手権公開審査会 1
プレゼンテーション前編
第13回 TEPCO快適住宅コンテスト提案部門
TEPCOインターカレッジデザイン選手権公開審査会 2
プレゼンテーション後編

第13回 TEPCO快適住宅コンテスト提案部門
TEPCOインターカレッジデザイン選手権公開審査会 3
公開討議 前編

第13回 TEPCO快適住宅コンテスト提案部門
TEPCOインターカレッジデザイン選手権公開審査会 4
公開討議 後編


出演者:武智仁志

「僕の建築系ラジオの聞き方」

 ただ単にラジオとして聞くのではなく、講義に参加したつもりで毎回自分の感想を書いていくことを課すようにすれば、考察力の向上に繋がるかなと思い、感想というかラジオを聞いて考えた事を書いてみました。レポートではないので、根拠など具体的なデータは明示していませんが、クチをポカ〜と開けて毎日を過ごしていた僕が建築系ラジオから刺激を受けていることは間違いありません(笑)
感想を書いていると、藤村龍至さんのライブ編集の神業のすごさが痛い程よく分かりました・・・。


「第5回 無限、その3」の感想

 参加学生の意見として、「無限」には、連続する・繰り返すなどの種類があるという意見がありました。無限を理解しようとする場合に、対象を種別化する行為は分析に役立つと思いますが、「無限」に関しては種別化すると、本質的な「無限」とは違ってくるように思われます。
種別化の行為によって導かれたものは、それ自体に限度があるように思われるからです。無限という表現は、宇宙の「黒」と似ており、存在しているのだけれども存在していないようなものをイメージさせます。

 では、そのようなイメージを人がどう認識しているかを考えると、「視覚」が重要な役割をしているのではないかと思いました。建築を体験する人は普通、五感というものを無意識に使っています。空間を認識する場合、最も簡単で情報を得やすい「視覚」をまず使っうことになります。
もし、「視覚」を抑制された状態、もっと言えば、「視覚」という感覚を生まれた時から知らない状態で建築の空間に立った時に建築という存在を、今我々が認識している空間と同じものとして捉えられるのだろうか?という疑問を持ちました。決して同じである必要はないのですが、建築に対する感動や想いの深さが変ってくるのではないかと思います。

 ヌーベルの言う「目に見えるもの以上のもの」は、視覚を前提としたもので、目で認識するという建築の基準が崩れると現在の建築が成り立たないのではないかと思いました。現代の建築を構成する物質は、無機質なものを使って自然などから身を守る存在ですが、目を閉じると(光の無い場所で)無機質なものとの関係性を読み取るのが難しくなります。
部屋のこの辺には本棚があって、扉があってという読みは、体験に基づく学習の成果であってリアルに自分の身体との関係性を読み取れるわけではありません。対照的に、ペットなどの動物で同じことを試みると、息づかいや、足音、熱などの情報によって位置関係が伝わってきます。
目を閉じた、ある意味無限に広がっている空間に突如としてペットとの関係性を持った別の空間を含有する状態になります。対象が植物でも同様に、葉が擦れる音や、足の裏から伝わる根の盛り上がりなどによって位置関係が導き出されます。
こうして考えていくと、「目に見えるもの以上のもの」とは、松田さんが言う、有限化や限度化、抑制化によって、視覚以外の感覚が研ぎすまされることによって得られるものだという気がします。壁の向こう側が少し見えたり、扉が少し開いたままであったりすると、視覚で捉えてから、皮膚の感覚を研ぎ澄まして「気配」を感じようとします。
視覚に限度を与えることで気配を感じようとする非物質的な世界に入り込む訳です。人間を考えると、身体という有限の物質内に心という無限の非物質が入っているわけですから、建築家の仕事は、この身体に閉じ込められた無限性のある心に影響を与え得る、非常に興味深いものだと考えるようになりました。

 山田さんが嫌う「ポコポコ系」や石上純也さんの植物を内包した建築は、視覚を抑制されても無限世界に入れるスイッチとしての建築に近づいているのかな?と思いましたが、山田さんが言う通り、皆が皆、同じ建築を志すと多様性の無くなった生命と同様に滅びるしかないのでしょう。そこは気をつけないといけませんが。

小難しい事を書いていると、脳が沸いて来ました(笑)。長々と感想を書いてすみません。文章力も鍛える必要があります(泣笑)。

また、思いついたら感想を書かせていただきます。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

2008年12月16日
脳が沸いた学生 武智仁志

・関連項目
15B: 第5回「無限、その3」
出演者:武智仁志

 以前、映像がないということが、かえって「声」に集中できるということを書きました。最近、建築系ラジオを聞いていて感じるのは、コアメンバーは、講師や教授というプレゼンのプロであるということもありますが、回を重ねる毎にトークの切れが増してきたように思います。
そして、なによりもアーキソフィアに出演している学生のトークがしっかりしてきました。すばらしい!その場で聞いた情報の感想を、その場で発言するという行為が参加学生のプレゼン能力を向上しているような気がします。
 建築設計は、現場で得た情報をどう処理するかで得られる解法が変ってくると思いますが、プレゼン能力の向上は、情報処理能力向上による建築設計能力アップにも繋がってくるように思いました。
 グループインタビューを聞いていると、男性よりも女性の方がしっかりした発言ができているように感じます。女性の方がおしゃべりで鍛えられているからでしょうか・・。それとも、いまだに社会的地位の差別感が残っている日本で、建築家を目指す女性は普段からの覚悟が違うのでしょうか。
 人どうしのコミュニケーション不足が指摘されている現代において、瞬時に「言葉」として変換する能力はデジタル化によるコミュニケーション手法のアナログ的回帰に役立ち、もしかすると、大げさかもしれませんが、秋葉原の事件の例のような無差別殺人をなくせることに繋がるかもしれません・・・。
映像としての文字をネットで見たことが事件の動機になっているようですが、声がもつ力というか、音で一瞬覆われる空間は、諭す空間、許す空間、やさしい空間など、映像だけでは伝えられないものを持っている気がします。映像としての文字だけを見る事で勘違いや思い込みを誘発しているように思います。
・・・今思ったのですが、文字という最小限の情報から広げられる真意というものを読み取る能力も欠けてきているのでしょうか。俳句を読んで頭に景色が広がるような情報処理能力の欠如です。
 なんでもそうですが、小さな部分の集まりが全体をつくっていますから、声にだしてコミュニケーションするという小さな事が無差別殺人をなくすという発想は、あながち的外れではないような気がしています。建築系ラジオが日本を救う!?

 それでは、また感想を書かせていただきます。今後ますます、建築系ラジオのファンになりそうです。

2008年12月13日
未来に希望を持つ学生 武智仁志
出演者:武智仁志

「ラヂオは友」で配信されるタイトルの最後に、"-[ ]-"で囲まれた部分がありますが、これはどのコンテンツに対してのコメントかが分かるようにしたものです。
一応、読んでいただいている人に分かるようにご説明させていただきます。

-[radio]-
 「建築系ラジオ ポータルサイト」から配信されたコンテンツへのコメントです。
-[r4]-
 「建築系ラジオ r4」から配信されたコンテンツへのコメントです。
-[Lab]-
 「建築系ラジオ Lab」から配信されたコンテンツへのコメントです。
-[ひとりごと]-
 建築系のひとりごとです。
-(思ひ出のコメント:〜)-
 過去に建築系ラジオコアメンバーの皆さんに送らせていただいたコメントです。

それでは、今回は2008年11月に初めて建築系ラジオにコメントさせていただいたものをお送りします。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 いつも楽しく拝聴させていただいています。
私は、30歳を過ぎた頃に建築を勉強し始めて、サラリーマンをやりながら通信で勉強しています。学校が企画した講演会に参加したくても旅費や時間の関係でなかなか聴講できない状況にいます。
そんな中、松田さん率いるラジオ番組の存在を知り、しかも無料で気軽に建築系の講演・講義が聞けるので、すごく幸せです!MP3ファイルなので、いつでもどこでも聞けるという形式に大賛成です。世の中、金・金、言い過ぎですよね。

 山田さんは、VectorWorksの本で知っていましたが、巻末の著者紹介で使用している写真と文章からイメージできる軽い感じそのままなので「おーっ」と感動してしまいました。でも、第14回の配信で実は、実力派ということを知り「カッコいい」と思いました!
できる人が僕達のところまで降りてきてもらってる感じが好感を持てます。そのところが山中さんとの違いでしょうか(笑)
 南さんのアーキソフィアは、難しいですが固定観念のようなものを柔軟にしてくれるようで、ありがたく拝聴させていただいています。天才ですね。建築を勉強し始めてから倫理学や心理学も興味が沸いてきていたのですがリアルタイムにプロの考えを生の声で聞けるので、これまた幸せです!
「濃度」(密度?)や「始まり」という境界の扱いに関して考えるキッカケとなりました。

 文章からも、ある程度の人格が読み取れるものですが、著名な建築家の声が聞ける環境というのは、現代に不足していたコミュニケーション不足解消につながる試みのようにも感じます。一部の学生とのやりとりの例のように、テレビのような一方通行ではないことも良いと思います。
パソコンが普及し匿名的な振る舞いが横行している中、「声」をキーとしてコミュニケーションする方法に人間味を活かす可能性を感じています。映像がないということが、かえって「声」に集中できます。声って魂の本質が表れるのかもしれません。
このラジオから、アイドルのような存在も生まれることも期待しています。(すでに山田さんかも・・・笑)

これからも、一般人にやさしい番組を放送してください。
感謝しています!

2008年11月 苦学生 武智仁志

・関連項目
14A: その2「若手の登竜門はいかに機能しているのか?」
(YSSK TIMEメッセージ/archi-radio登場/基調報告--山田幸司)
08B: 第1回「はじまり」
出演者:武智仁志

めちゃくちゃ面白いです(笑)。
梅林さんの登場人物に合わせた声色がその人の人格を表していて、特に高松さんの迫力が伝わってきました(笑)。時折、山田さんが差し入れるツッコミが梅林さんを動揺させる場面があって、やりとりが最高です。まるで、お二人が舞台の上で漫才されているようです。

聞いていて、すごく楽しくなってくるのですが、梅林さんが上手に話されるからであって、語り部がもし違う方でしたら、高松さんが極悪人のように聴こえるかもしれません(笑)。
高松さんのアバウトというか、豪快な人格が表れてきます。マーク2の話は、まさに刑事ドラマ。本当は、手足を縛られているんじゃないかと聞いていてヒヤヒヤものです(笑)。
でも、どうなんでしょう。高松さんがそこまでされるということは、梅林さんがぜひ欲しい人材だったということですね。でなければ、そんな無茶なことしませんよね。

出会いというのは不思議ですね。
若い時代の彼女のちょっとした一言で人生が決まったといえますもんね。一言がなければ、高松さんとの出会いも無かったですからね。そして、彼女が建築に興味を抱いていなければ条件がそろっていなかったですし。こうやって自分の歴史をたどるというのは、面白いですね。人のつながりが浮き彫りになります。建築でよくプライベート空間とか言いますが、ほとんどの場面で人と関わり合って生きているんですね。ありがたいことです。

金銭的な話題になると、もう別世界です!
小説かマンガにでてきそうなレベルで、憧れました。建築をやっている人は、密かに金銭的な夢も持っているのではないでしょうか?吉本工業ではないですけど、当たれば大きいと(笑)。僕が、建築をやろうかと思った動機が実は金銭面です(笑)。今は逆に家計を圧迫してますけどね(苦笑)。

梅林さん、明るく話されていますけど、本当に苦労されたんだろうなと思います。
黙々と仕事をされている時代は、建築が好きだから乗りこえられたのでしょうね。でなければ苦痛です。一日の最後に宴会があるんで、乗りこえられたということもあるでしょう。
建築系ラジオを聞いていても、皆さん頻繁に飲み会をされている気がします。学生時代のアイデア作りや、模型作りは楽しいですが、建築を生業にして詳細図面を書き始めてから、向き不向きが出てくのではないかと思います。細かいですからね。この段階で向かない人が多いのではないかと思います。細かい作業をしていると、最後はやっぱりパーっと飲んでリセットしたくなりますね。
しかし、つくづく皆さんの財力を見せつけられます。そんなに飲みに行けないですよー。今の僕の財力では。

面白い人には、話のネタになるエピソードが必ずあるものなんですね。笑いの神様が降りて来ています(笑)。梅林克さんと山田幸司さんのトークは、まさに化学反応です。建築界のケミストリー!!
あれっ?(前半)ということは、後半もあるのですね?まだネタがあるのですかっ!どんな話が聞けるのか楽しみですー。豪快すぎて本当に笑えますから、落ち込んだ時に皆さんもどうぞっ!落ち込んでいるのがアホらしくなるくらいに元気な気持ちになって笑えますよ(笑)。

・関連項目
44C: 伝説のトーク「梅林克 x 山田幸司」(前半)
46C: 伝説のトーク「梅林克 x 山田幸司」(後半)

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ラヂオは友の
「でしゃばり目次」
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44C: 伝説のトーク「梅林克 x 山田幸司」(前半) 
〜建築家がいかに建築家になったか〜

00:00〜「コーナー紹介」
01:02〜「自己紹介(肩書きとフルネーム)」
01:30〜「高校時代。梅林さんの夢とカノジョ」
03:44〜「海外の大学をめざして」
04:40〜「おいおい、話ちゃうやん!」
05:51〜「大学へ。ええとこやないか!」
06:40〜「高松伸さんとの出会い。えっ?拉致ですか?」
07:48〜「マーク2にて。えっ?そこ、乗れるんですか?」
08:20〜「高松伸さんの人材調達手法・・・」
08:48〜「えっ?ちょ、懲役っすか?」
09:19〜「クサい飯を食った仲間とは?同じ手口で・・・」
11:35〜「思い出のしだれ桜・・・」
12:39〜「事務所時代の苦労話」
13:54〜「当時の高松事務所。急成長!すごいです。」
15:01〜「5人時代のエピソード。ブライアン・イーノが・・・」
15:40〜「俺を殺す気かっ!」
16:50〜「外出できるのは・・・」
17:19〜「0時の、あのラジオ番組が合図です!」
18:23〜「バーボンが飲めると良いことが」
19:22〜「音がします!」
20:24〜「高松さんのボーナス支給の方法」
21:25〜「うお〜!そんなにですかっ!」
22:03〜「ボーナスの使い道。むふふっ。」
22:20〜「経費を月に・・・え"〜!マジですかっ!うそ〜!」
23:15〜「高松さんの移動手段は・・・!えっ?」
23:32〜「出張先で発表がありました。」
24:40〜「お三方の担当系列」
25:29〜「いよいよ発表です!」
26:20〜「パートナーなのに!」
(全 28:06)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
出演者:武智仁志

ゴールデン・ウィークということで、感想を2日連続でお届けしようと思います(笑)。
いやー、あのー、暇ではないですよ・・・。

「座・高円寺」に行くと、ipodを聞きながら幸せそうな顔でウロウロしている男子がウヨウヨいそうです(笑)。一人なのに、幸せそうな顔でウロウロしている男子を見かけたら、それは、間違いなく建築系男子であり、間違いなく建築系ラジオのリスナーです!(笑)。

さて、そんな皆さんは、このコンテンツを聞いて、倉方さんに対してうらやましいという感情を持ったり、妬みの感情を持ったのではないでしょうか?
しかーし!
建築学生たるもの、表層的なものにのみ気を取られていてはいけません(笑)。
あの、伝説の建築家、山田幸司さんの熱い言葉を思い出してください!
そう、それは・・・

「〜そこに本質が隠されてることがある〜」
(43A: 建築系ラジオ新春企画「YSSK TIMEとの合同収録」より)

建築系ラジオが一番伝えたい根本的なことが、このコンテンツの奥深くに隠されているはずです(多分・・・)。この言葉の意味を噛み締めないまま、このコンテンツを聞いてしまえば、あなたはただのオタク系男子になってしまいます(笑)。
倉方さんとカリスマ建築ガール、なんだかすごく初々しいですよね。これがまた、今回のカリスマ建築ガールの声が、声優さんみたいで、ipodで聞くと、まるで耳元で・・・。
おっとー、僕も今、ただのオタク系オヤジになっていました。失礼しました・・・。

気を取り直して、伝説の建築家、山田幸司さんの言葉を噛み締めながら聞いてみると、倉方さんの「座・高円寺」の楽しみ方が示されていることに気がつきます。

まず、中央線からどんな風に見えるかという会話がありましたね。建築単体へのみ注意するのではなく、交通機関と建築、街と建築の関係から建築に対して自分がどういう気持ちになったかを分析しようということでしょうか。
その建築に行ってみたくなったかどうかという気持ちは、その場所に座・高円寺という建築があるという前提の知識に左右されない、人を誘う力が建築から感じるかどうかがポイントになりますね。
これは、写真や地図だけでは絶対に読み取れないことですね。そして、道中は、わりと寂しい場所とも。そんな場所であえて閉じた建築とした伊東豊雄さんの思惑とは?そういったことに思いを馳せると、謎解きのようで楽しくなってきますね。

そして、座・高円寺ができるまでの歴史はどうか。『建築ノート』でカンニングすると、なぜ徳島の阿波踊りがこの土地で専用のホールをつくる程メジャーなのかも垣間みれます。街の人に話を聞いたり、実際に踊りに参加するともっと楽しく勉強ができそうですよね。
ファサードからみるという場面では、建築単体と周辺環境との対比、どんな印象でみえるかを分析することで、近景との関係にある建築の存在感が浮き彫りになってきますね。公共系の建築は人を引きつけるファサードが必要かどうか、またこの建築が人を引きつけるものになっているか。
近隣には鉄道の高架や車が走っていて、劇場としての防音対策が厳しい条件だと倉方さんは読み取られています。おー、ここで、あえて建築を閉じた理由になんとなくつながったような。後ろが住宅街なのも、閉じた形態の理由の一つかもしれません。

その他、劇場の芸術監督の要請によるプログラムでつくられたとか(コンテンツ中に「サトウシン」さんとありましたが、「サトウマコト」さんの誤りです。)、この建築で特徴的な光の濃淡による効果、入口と光の演出の関係、左官仕上げの壁と光の関係、素材、階段の魅力、コラボした安東陽子さんの話、屋根の形状が建築内部に現れていることなど、この建築をみるポイントが語られています。
閉じた建築では色も重要なポイントのような気もします。光の色、光を受ける壁や床の色、光と壁の色って混ざるのでしょうか。

なぜ、本物をみないとわかんないかという問いがありました。言葉にしがたいものがあるからだと。図面にも、写真にも、建築家の言葉にも現れないもの・・・。これは、すっごく魅力的なものですね。視覚だけでは人に伝わらず、五感を通してでないと得られない情報というものに好奇心がくすぐられます。

カフェに入ると、カリスマ建築ガールが、どうやら食べ物の写真を撮っていました。カフェにだされる料理と建築内部の雰囲気の関係って、実際に建築をつくる建築家にとって実は、重要なことのような気がします。学生の間は形のかっこよさに気が向きますけど。
遅くまでカフェをやっているということですから、割と寂しい道中がカフェからどんな風に見えるかが気になります。閉じてるから見えないのでしょうか。圧迫感はないのか・・・。うーん、見てみたい。

そして、なんといっても座・高円寺をみる時は、建築デートでカノジョやカレシと一緒にみる。決して一人でipod付けてみないことですね(笑)。
カリスマ建築ガールも、さすがの発言があります。最後に、建築界の女性の立場についても言及があり、そういう意味でも、この「カリスマガールと建築デート」のコーナーへの出演意義が語られたことはヌカリがありません。

コンテンツの最後の方、倉方さんは、好きでこのコーナーをやっているのでは決して無い!ということを感じ取りました・・・。つらい。そんな気は無いにしても言われると、寂しい。本当に、そんな気は無いにしてもヘコみます。ここまで聞いていた建築男子は、倉方さんへの妬みの感情が解消されて、一気に倉方さん側へと近づきます(笑)。
僕も何度か言われたことのあるニュアンスのセリフ。このセリフに耐えながら、今後も収録をするのかと思うと、倉方さんの精神力の強さを痛感します。うーむ、さすがはカリスマ建築ガール。大人の対応だ・・・。

三十ん〜年間の薄っぺらい僕の人生ですけど、この人生で気付かされたことがあります。
このコンテンツを聞いて、その気付いたことを、やっと言語化できました。いままでの、僕のラジオをなぞっただけの話は、この言葉にたどり着くためにあったようなものです(笑)。
伝説の建築家、山田幸司さんの熱い言葉には遠く及ばないヌルい言葉ですが・・・。
言っていいですか?それは・・・、

「他人のものは良さげに見える。」

これです!

電車内で隣人が雑誌を読んでいると、妙にその本に書かれていることが魅力的に見えることってありませんか?なんだか面白そうだなと、いつも思うんです。
っで、その本を手にしてみると、たいして面白くなかったという経験があります。
他人が読んでいるのを目にしているときは、興味がわくんです(笑)。

戦争の原因でも、金銭に対しても、カップルの喧嘩の原因も、すべてに当てはまる、的を得た言葉だと思うんです・・・。

さあ、皆さんご一緒に、
please repeat after me

「他人のものは良さげに見える。」


・関連項目
首都大学東京 高橋千尋さんとデート@座・高円寺
槻橋修インタヴュー 建築ノートという試みと、その最新号について
43A: 建築系ラジオ新春企画「YSSK TIMEとの合同収録」
出演者:武智仁志

建築系ラジオ第2期の始動、誠におめでとうございます。貴重な存在の山田さんを失ったのは大きいですが、残された僕たちは、また新たな一歩を踏み出すしかありません。

ご挨拶が遅れました。みなさん、はじめまして。
非常に恐縮なのですが、この度、建築系ラジオ第ニ期始動を機会にラジオのレビューを書けと仰せつかりました、武智仁志と申します。

「おぬしっ、なにものじゃ!」とつっこまれる方も多いと存じます・・・。無理もない・・・。
僕は、ただの平凡な学生であります。しかも、社会人で 他の仕事をしながら建築を勉強しているという、無鉄砲な30代後半の加齢臭漂うおっさんです。(ゔっっ!)

建築系ラジオ第一期の山田さん に魅せられ、せっせと感想文を送り続けてきたのが、鬱陶しかったのか(笑)、コーナーを担当させていただくことになりました。
とはいっても、ラジ オを聞いての感想や、ラジオを聞いて僕が悩んでみた内容ですので、たいして役には立ちません(笑)。ただのブログです。ただのブログだからこそ、気が引けるんです・・・。

おしゃべりは得意では無い代わりに、文章で人格が変る奴、いますよねー。特に匿名を使うと。
あっ、それ僕です。
まっ、 しかし、いままでの感じで続けられるだけ続けようと思います。

少しでも何かの役に立てばと願っています。皆さんからも、ラジオの感想をコ アメンバーの皆さんに送っていただけると、僕もうれしいです。

最後に、貴重なページを何者かも分からない僕に割いてくださった建築系ラジオ関係者の皆様、本当にありがとうございます。腹が引き締まる思いです!

それでは皆様、気が向いたらおつきあいくださいねっ!

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