ご挨拶が遅くなりました。
本年もよろしくお願いいたします。
久しぶりの感想です。2011年は、仕事も震災の影響が大きい一年でした。間接的ではありますが仕事を通して復興のお手伝いをさせていただいたのかなあ。直接的ではないので、あまり実感はないですね・・・。
明日もあるとは限らない精神で生きたいところですが、根がノンキなようで。
今年は、平凡でもいいから幸せを感じられる毎日が過ごせますように。
それでは、2012年の感想一発目です。
---
「北川さんの多視点のすすめ」
何も知らない僕が(?)、誰かに、「これはラブホです。」と言われ、「ああ、そうですか。で、どうやって使うのですか?」と聞くとしましょう。使い方を教わってからは、素直にそういう使い方しかしない。「いや、まてよ・・」と疑ってかかる事は、まずなかったでしょう。情報を与えられて、皆がそう使ってるから特になんの疑いも無く、そういうものなんだと「素通り」してしまいがちだと思うのです。常識なんて、なんともったいないコダワリだろうと。知らないあいだに、流されて生きているんだなあと、ふと考えちゃいました。
そういえば、僕は使い方を教わっていないはず・・。なのに、どうやって利用方法を知ったのだ?ここで、強引かもしれませんが、「視覚的無意識」に関する五十嵐さんの論考を見つけました。(こういうの大好きです。面白い。もっとちゃんと理解したいですね。)ロザリンド・E・クラウスが言っている言葉のようですが、ひとつの情報を繰り返し与えられ続けることで習慣化し、無意識としてすり込まれるのでしょうかね。
僕が住んでいる辺りは、東京とは違ってラブホは人里離れた場所にあるものでした。それが、いつの間にか街中に浸食といっては失礼かもしれませんが、存在しているようです。ラブホがやってきたのではなくて、街が広がっていったのかもしれませんね。詳しく調査したわけではないのですが、田畑の減少を見ているとそんな気がします。
普通に目にするようになったとはいえ、先入観があって、家族でラブホを利用するには抵抗があるかなと。「先入観」と標準的な誰かと自分を相対化してしまって・・、あ〜要するに、人の目が気になってしまいます。こちらのは、車でこっそり入って、こっそり出て行くので、なんだか悪事を働いているような気分にさせられます(笑)。意気地なし。
無批判的行動主義には、ほど遠い毎日です(笑)。
こうあるべきと思っている事に対して、スッと違う視点で見られたら生きていく上でもすごく便利なんでしょうね。うまくいかない時って、だいたい、まず間違いなく、思い込んでいたり、一部しか見えない場所から見ていたりしていますからね。ピカソの絵画のような見方が大切なんだなあと思いました。
「所有感と所有権」
これもまた、興味のあるお話でして、しかし、異性に対する所有何々は経験値的によくわからないですが、建築に置き換えると、まだ分かるような気がします。
法律上の敷地のお話。
お隣さんと親しくさせてもらっていますが、現在の親しみ度をふまえると、敷地境界にある色気のないブロック塀は取り払ってしまいたいとまで思っています。そうすれば、法律で認められた所有権によって区切られた、せまーい庭をもう少し広くできて、お互いの子供達をもっと自由に走らせることができるからです。(特に晩ご飯の準備中は、子供達に外で走り回ってもらう方がお母さんが助かります。)現状でも、庭でバーベキューや餅つきをやったりしてますので、ブロック塀さえ気にしなければ、お隣さんの庭には所有感を抱いています。そして、お向かいの広めのご近所さん家の庭も、季節によって様々な花が咲き、我々家族や、ご近所さんの目を楽しませて頂いてます。所有権はないのですが、とても所有感がありますね。ただ、お隣さんは借家ですので、お隣さんによってはブロック塀の主張が強く感じられるようになるでしょう。
所有権という言葉からは、「モノ」に対する自分の立ち位置を自他ともに「認めさせる」ためのルールや秩序というものを感じます。所有感という言葉からは、境界線がゆる〜く、あるようでないような自己満足でも成り立つ、個人的な価値観(共有もできます)で対象をみている感じを受けます。所有感を刺激する建築なり、敷地を工夫できれば都市や街はもっと過ごしやすい環境になるような気がします。建築は輪郭を持っているため、庭にある樹木のような所有感を持たせるためには、建築のスキマを共有できればいいのでしょうか。スキマというのは建築の間、庭や道路や建築の上空などのことですね。あるいは、屋内の一部かもしれません。時間帯によって使われていない空間とか。パブリックとプライベートみたいな話になると、やっぱり樹木の所有感とは違ってくるような・・。建築は輪郭を持っているが、空間を含んでいるので、この空間と建築のスキマをうまくリンクさせると・・・。あ〜、言葉では色々と妄想できるのですが、絵にしようとすると全然違う!「視覚的無意識」になるくらい何度も描き続けなければ答えのようなものは出てこないかぁ。
おっ。ここで、コロンブスの卵のような疑問が浮かんできました。
所有感をもっと広げるためには、前提としてご近所さん達に対して心許せる人間関係を築いていなければキツいですよね。建築の力で、ご近所さん達との人間関係を築いていけるものなのか、それとも、北川さんのラブホ話のようなソフト面の工夫でご近所さん達との人間関係を改善し、それに伴って建築のカタチを変えていく方が良いのか。住宅街に多い家屋は、一戸建てと言いますから、オモイっきり区切られてますからね。そもそも、建築家が建築を「作品」と読んでいること自体が都市を分断させているのかも・・。「ここまでは俺が考えたやつ。こっからあっちは他の誰かが考えたやつ。」って境界を主張したがってるってことですもんね。メーカーの家でも、敷地分譲でここはうちが売ってる領域ってやってますね。とは言え、都市計画とリンクするには並大抵ではない時間を要しそうです。この時間を惜しむか、そうでないか。
自分がコントロールしきれないスキマ領域をどう捉えられるかが所有感を左右するかも。DIYレベルで家をさわった経験で言うとですが(プっ!)、設計者がコントロールできない要素をデザインに組み込む可能性も面白いかもしれません。土木的でランドスケール的な樹木の成長を待つような設計手法です。一般的な人が、一生を左右する程の金額を家にかけて「買う」のではなくて、今持っているお金を使って、少しづつ完成に近づけるという工程を計画に組み込むのです。一人の人間の作品とは言えなくなります。芸術と言えるかどうかの視点で言うと難しいかもしれませんが。しかし、皆が日常的に家をつくる行為を身につけたら芸術的な出来映えになると思います。自分の家をつくるのですから、現在のような家づくりの素人のままではいけないような気がします。ここまでくると街のスキマ領域が活かされると思います。無計画でも芸術的な美意識を伴ってスキマが活用されるなんて、ある意味、アルゴリズミックな手法なんですかね?話が脱線したような、つながっているような・・。やっぱり、前田さんの「ビー玉」的意識をあらゆる人達がもてる事が大切な気がします。すみません、エラそうな事を言いました・・・。
家族単位や、一戸単位で区切られてしまうというのは、色々あるのでしょうけど、「異性」との関わり方も大きいのでしょう。あらゆる行為を大胆にご近所さん達に披露するわけにもいきません。かと言って、ガチガチに分断していくと結局は引きこもり家族が増えるばかりで・・・。コンテンツで話されていたクリスマス時期のロビー話は、所有感をコントロールできるヒントがあるような気がしました。
一室空間だけれども、建築の使い方が状況を生んで、仲間意識に影響を与える・・か。物理的には境界がなくて、カップルという分節ができています。しかし、北川さんは一歩踏み込んで、このカップルまでシャッフルしようと?(笑)。家族単位とか、近所単位に置き換えると、建築のありかたを変えられる視点だと思います。このコンテンツ内容と、『建築と日常 特集:建築の持ち主』(長島明夫 編集・発行)が妙に自分の中でリンクしました。(この本で紹介されている『生きられた家』多木浩二著 をネットで見つけました!読むのが楽しみです。)
北川さんのコンテンツは、色々と物議を醸し出す要素が強いかもしれませんが、よくよく聞いてみると表面的な会話の奥に本質が隠されているような気がしています。
ジェンダーのコンペも聞き直して、いろいろと考えてみようっと!
・関連項目
・北川啓介の無批判的行動主義
SDレビュー2011入選者によるラブな空間論 [1/3]
・北川啓介の無批判的行動主義
SDレビュー2011入選者によるラブな空間論 [2/3]
・北川啓介の無批判的行動主義
SDレビュー2011入選者によるラブな空間論 [3/3]
・第13回TEPCO快適住宅コンテスト提案部門
TEPCOインターカレッジデザイン選手権公開審査会 1 プレゼンテーション前編
・第13回TEPCO快適住宅コンテスト提案部門
TEPCOインターカレッジデザイン選手権公開審査会 2 プレゼンテーション後編
・視覚的無意識としての近代都市──三つの都市の展覧会をめぐって
五十嵐太郎
本年もよろしくお願いいたします。
久しぶりの感想です。2011年は、仕事も震災の影響が大きい一年でした。間接的ではありますが仕事を通して復興のお手伝いをさせていただいたのかなあ。直接的ではないので、あまり実感はないですね・・・。
明日もあるとは限らない精神で生きたいところですが、根がノンキなようで。
今年は、平凡でもいいから幸せを感じられる毎日が過ごせますように。
それでは、2012年の感想一発目です。
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「北川さんの多視点のすすめ」
何も知らない僕が(?)、誰かに、「これはラブホです。」と言われ、「ああ、そうですか。で、どうやって使うのですか?」と聞くとしましょう。使い方を教わってからは、素直にそういう使い方しかしない。「いや、まてよ・・」と疑ってかかる事は、まずなかったでしょう。情報を与えられて、皆がそう使ってるから特になんの疑いも無く、そういうものなんだと「素通り」してしまいがちだと思うのです。常識なんて、なんともったいないコダワリだろうと。知らないあいだに、流されて生きているんだなあと、ふと考えちゃいました。
そういえば、僕は使い方を教わっていないはず・・。なのに、どうやって利用方法を知ったのだ?ここで、強引かもしれませんが、「視覚的無意識」に関する五十嵐さんの論考を見つけました。(こういうの大好きです。面白い。もっとちゃんと理解したいですね。)ロザリンド・E・クラウスが言っている言葉のようですが、ひとつの情報を繰り返し与えられ続けることで習慣化し、無意識としてすり込まれるのでしょうかね。
僕が住んでいる辺りは、東京とは違ってラブホは人里離れた場所にあるものでした。それが、いつの間にか街中に浸食といっては失礼かもしれませんが、存在しているようです。ラブホがやってきたのではなくて、街が広がっていったのかもしれませんね。詳しく調査したわけではないのですが、田畑の減少を見ているとそんな気がします。
普通に目にするようになったとはいえ、先入観があって、家族でラブホを利用するには抵抗があるかなと。「先入観」と標準的な誰かと自分を相対化してしまって・・、あ〜要するに、人の目が気になってしまいます。こちらのは、車でこっそり入って、こっそり出て行くので、なんだか悪事を働いているような気分にさせられます(笑)。意気地なし。
無批判的行動主義には、ほど遠い毎日です(笑)。
こうあるべきと思っている事に対して、スッと違う視点で見られたら生きていく上でもすごく便利なんでしょうね。うまくいかない時って、だいたい、まず間違いなく、思い込んでいたり、一部しか見えない場所から見ていたりしていますからね。ピカソの絵画のような見方が大切なんだなあと思いました。
「所有感と所有権」
これもまた、興味のあるお話でして、しかし、異性に対する所有何々は経験値的によくわからないですが、建築に置き換えると、まだ分かるような気がします。
法律上の敷地のお話。
お隣さんと親しくさせてもらっていますが、現在の親しみ度をふまえると、敷地境界にある色気のないブロック塀は取り払ってしまいたいとまで思っています。そうすれば、法律で認められた所有権によって区切られた、せまーい庭をもう少し広くできて、お互いの子供達をもっと自由に走らせることができるからです。(特に晩ご飯の準備中は、子供達に外で走り回ってもらう方がお母さんが助かります。)現状でも、庭でバーベキューや餅つきをやったりしてますので、ブロック塀さえ気にしなければ、お隣さんの庭には所有感を抱いています。そして、お向かいの広めのご近所さん家の庭も、季節によって様々な花が咲き、我々家族や、ご近所さんの目を楽しませて頂いてます。所有権はないのですが、とても所有感がありますね。ただ、お隣さんは借家ですので、お隣さんによってはブロック塀の主張が強く感じられるようになるでしょう。
所有権という言葉からは、「モノ」に対する自分の立ち位置を自他ともに「認めさせる」ためのルールや秩序というものを感じます。所有感という言葉からは、境界線がゆる〜く、あるようでないような自己満足でも成り立つ、個人的な価値観(共有もできます)で対象をみている感じを受けます。所有感を刺激する建築なり、敷地を工夫できれば都市や街はもっと過ごしやすい環境になるような気がします。建築は輪郭を持っているため、庭にある樹木のような所有感を持たせるためには、建築のスキマを共有できればいいのでしょうか。スキマというのは建築の間、庭や道路や建築の上空などのことですね。あるいは、屋内の一部かもしれません。時間帯によって使われていない空間とか。パブリックとプライベートみたいな話になると、やっぱり樹木の所有感とは違ってくるような・・。建築は輪郭を持っているが、空間を含んでいるので、この空間と建築のスキマをうまくリンクさせると・・・。あ〜、言葉では色々と妄想できるのですが、絵にしようとすると全然違う!「視覚的無意識」になるくらい何度も描き続けなければ答えのようなものは出てこないかぁ。
おっ。ここで、コロンブスの卵のような疑問が浮かんできました。
所有感をもっと広げるためには、前提としてご近所さん達に対して心許せる人間関係を築いていなければキツいですよね。建築の力で、ご近所さん達との人間関係を築いていけるものなのか、それとも、北川さんのラブホ話のようなソフト面の工夫でご近所さん達との人間関係を改善し、それに伴って建築のカタチを変えていく方が良いのか。住宅街に多い家屋は、一戸建てと言いますから、オモイっきり区切られてますからね。そもそも、建築家が建築を「作品」と読んでいること自体が都市を分断させているのかも・・。「ここまでは俺が考えたやつ。こっからあっちは他の誰かが考えたやつ。」って境界を主張したがってるってことですもんね。メーカーの家でも、敷地分譲でここはうちが売ってる領域ってやってますね。とは言え、都市計画とリンクするには並大抵ではない時間を要しそうです。この時間を惜しむか、そうでないか。
自分がコントロールしきれないスキマ領域をどう捉えられるかが所有感を左右するかも。DIYレベルで家をさわった経験で言うとですが(プっ!)、設計者がコントロールできない要素をデザインに組み込む可能性も面白いかもしれません。土木的でランドスケール的な樹木の成長を待つような設計手法です。一般的な人が、一生を左右する程の金額を家にかけて「買う」のではなくて、今持っているお金を使って、少しづつ完成に近づけるという工程を計画に組み込むのです。一人の人間の作品とは言えなくなります。芸術と言えるかどうかの視点で言うと難しいかもしれませんが。しかし、皆が日常的に家をつくる行為を身につけたら芸術的な出来映えになると思います。自分の家をつくるのですから、現在のような家づくりの素人のままではいけないような気がします。ここまでくると街のスキマ領域が活かされると思います。無計画でも芸術的な美意識を伴ってスキマが活用されるなんて、ある意味、アルゴリズミックな手法なんですかね?話が脱線したような、つながっているような・・。やっぱり、前田さんの「ビー玉」的意識をあらゆる人達がもてる事が大切な気がします。すみません、エラそうな事を言いました・・・。
家族単位や、一戸単位で区切られてしまうというのは、色々あるのでしょうけど、「異性」との関わり方も大きいのでしょう。あらゆる行為を大胆にご近所さん達に披露するわけにもいきません。かと言って、ガチガチに分断していくと結局は引きこもり家族が増えるばかりで・・・。コンテンツで話されていたクリスマス時期のロビー話は、所有感をコントロールできるヒントがあるような気がしました。
一室空間だけれども、建築の使い方が状況を生んで、仲間意識に影響を与える・・か。物理的には境界がなくて、カップルという分節ができています。しかし、北川さんは一歩踏み込んで、このカップルまでシャッフルしようと?(笑)。家族単位とか、近所単位に置き換えると、建築のありかたを変えられる視点だと思います。このコンテンツ内容と、『建築と日常 特集:建築の持ち主』(長島明夫 編集・発行)が妙に自分の中でリンクしました。(この本で紹介されている『生きられた家』多木浩二著 をネットで見つけました!読むのが楽しみです。)
北川さんのコンテンツは、色々と物議を醸し出す要素が強いかもしれませんが、よくよく聞いてみると表面的な会話の奥に本質が隠されているような気がしています。
ジェンダーのコンペも聞き直して、いろいろと考えてみようっと!
・関連項目
・北川啓介の無批判的行動主義
SDレビュー2011入選者によるラブな空間論 [1/3]
・北川啓介の無批判的行動主義
SDレビュー2011入選者によるラブな空間論 [2/3]
・北川啓介の無批判的行動主義
SDレビュー2011入選者によるラブな空間論 [3/3]
・第13回TEPCO快適住宅コンテスト提案部門
TEPCOインターカレッジデザイン選手権公開審査会 1 プレゼンテーション前編
・第13回TEPCO快適住宅コンテスト提案部門
TEPCOインターカレッジデザイン選手権公開審査会 2 プレゼンテーション後編
・視覚的無意識としての近代都市──三つの都市の展覧会をめぐって
五十嵐太郎