「からまりしろ」という不思議な言葉。
どういうことか、分析するために(笑)、言葉を分解してみますと「からまる」と「しろ」になります。
■「からまる」
「からまる」から連想する形状を考えてみますと、壁のような面積が大きい断面をもつ形状よりも、小さな細い糸のような形状を思い起こせます。(中学生時代は、釣りにハマっていましたが、よくリールがバックラッシュ(ライントラブル)してました(笑)。)断面積の大きい形状でも長ければ、からまることはできますが、断面積が小さい形状を想像するとしっくりくる言葉です。
断面積が小さい形状を想起することから、向こう側が見えない、聞こえない、匂わないなど、自然界の中で本能的に機能する感覚が遮断されるような現代の高機密高断熱の壁や床ではなく、からまっている程度によって濃淡が生まれ、からまっている要素の向こう側が見えるし、聞こえるし、匂うし、五感が刺激されそうな、既存の壁ではないものを想像しました。
■「しろ」
そして「しろ」ですが、子供の雑誌の付録でよくみかけます。そうです、「のりしろ」ですね。この、「のりしろ」を想像すると「からまりしろ」の「しろ」が分かりやすいかもしれません。
「しろ」は決して主役ではなく、主役にとっても「しろ」は表立って大切な存在ではないんですよね。主役が持っている機能を果たすために、積極的に働いているわけではないのですが、しかし、「しろ」がないと主役の存在そのものを成り立たすことができません。
■「からまりしろ」がある建築は三枚目?
こうして考えてみると、「からまりしろ」がある建築とは、必要最低限に形状や機能を削ぎ落とした鋳型で成型されたような格好よい建築ではなくて、余裕があるというか、逆に余計なものを付け足した、楽しげな建築ではないかと想像します。表面的な装飾ではなくて、余白のようなものを足すことで、他者との新しい価値観が混在できるような建築です。他者が他人であるか、新しい家族関係であるのか、植物であるのかは分かりませんが、占有空間だけを集めてできていない空間です。ある関係の集合体を建築と呼んでいるとすれば、「からまりしろ」がある建築は、もっと別次元の関係も取込んだ建築と言えるでしょうか。
(むむ〜、わけがわからなくなってきたゾ。)
いや、この解釈が平田さんの同意を得るかは怪しいですが、いろんな人のいろんな解釈を生む問いかけが良いんですよね。
松田さんの解釈が分かりやすく、AとBの関係に置き換えると少し理解が深まったような気がしました。主従の関係ではなくて、互いに対等な関係、または許容し合う関係が生まれることで、すでにある存在(風、水)を受け入れられる建築ですね。領域を独り占めしない建築。
主従の関係を保つと、主の方に従が頼るわけですから、ある条件が満たされた時に限界があるはずですね。一方、対等の関係であれば、互いに拡張性を持ち続けられる可能性があって、互いの関係の持ち方によって常識の限界を越えることも起こりうる可能性が高まりますね。
■「からまりしろ」がある建築を受け入れる心構え
どうやら、閉じきってはいない建築のような雰囲気がありますね。今までの男前建築では、わがままを言いやすかった事が、「からまりしろ」がある建築では人間が「ほんの少し我慢する」とか、「ほんの少し許容する」ということも楽しみたくなるような建築ですね。
建築内なのに、風が心地よいとか、あそこに行きたいけど雨に濡れるとか、手を伸ばせばお隣さんから醤油を貸してもらえるとか(笑)。現代人の感覚では面倒だと思う手間が、逆にこちらから手をかけたくなるような、ウルウル目のチワワのような建築かなあ。
「ほんの少し我慢すると、得られる幸福あります。」っていうのが、「からまりしろ」がある建築の特徴かもしれませんよ。
・関連項目
せんだいスクール・オブ・デザイン03
平田晃久インタビュー「建築とはからまりしろをつくることである」
どういうことか、分析するために(笑)、言葉を分解してみますと「からまる」と「しろ」になります。
■「からまる」
「からまる」から連想する形状を考えてみますと、壁のような面積が大きい断面をもつ形状よりも、小さな細い糸のような形状を思い起こせます。(中学生時代は、釣りにハマっていましたが、よくリールがバックラッシュ(ライントラブル)してました(笑)。)断面積の大きい形状でも長ければ、からまることはできますが、断面積が小さい形状を想像するとしっくりくる言葉です。
断面積が小さい形状を想起することから、向こう側が見えない、聞こえない、匂わないなど、自然界の中で本能的に機能する感覚が遮断されるような現代の高機密高断熱の壁や床ではなく、からまっている程度によって濃淡が生まれ、からまっている要素の向こう側が見えるし、聞こえるし、匂うし、五感が刺激されそうな、既存の壁ではないものを想像しました。
■「しろ」
そして「しろ」ですが、子供の雑誌の付録でよくみかけます。そうです、「のりしろ」ですね。この、「のりしろ」を想像すると「からまりしろ」の「しろ」が分かりやすいかもしれません。
「しろ」は決して主役ではなく、主役にとっても「しろ」は表立って大切な存在ではないんですよね。主役が持っている機能を果たすために、積極的に働いているわけではないのですが、しかし、「しろ」がないと主役の存在そのものを成り立たすことができません。
■「からまりしろ」がある建築は三枚目?
こうして考えてみると、「からまりしろ」がある建築とは、必要最低限に形状や機能を削ぎ落とした鋳型で成型されたような格好よい建築ではなくて、余裕があるというか、逆に余計なものを付け足した、楽しげな建築ではないかと想像します。表面的な装飾ではなくて、余白のようなものを足すことで、他者との新しい価値観が混在できるような建築です。他者が他人であるか、新しい家族関係であるのか、植物であるのかは分かりませんが、占有空間だけを集めてできていない空間です。ある関係の集合体を建築と呼んでいるとすれば、「からまりしろ」がある建築は、もっと別次元の関係も取込んだ建築と言えるでしょうか。
(むむ〜、わけがわからなくなってきたゾ。)
いや、この解釈が平田さんの同意を得るかは怪しいですが、いろんな人のいろんな解釈を生む問いかけが良いんですよね。
松田さんの解釈が分かりやすく、AとBの関係に置き換えると少し理解が深まったような気がしました。主従の関係ではなくて、互いに対等な関係、または許容し合う関係が生まれることで、すでにある存在(風、水)を受け入れられる建築ですね。領域を独り占めしない建築。
主従の関係を保つと、主の方に従が頼るわけですから、ある条件が満たされた時に限界があるはずですね。一方、対等の関係であれば、互いに拡張性を持ち続けられる可能性があって、互いの関係の持ち方によって常識の限界を越えることも起こりうる可能性が高まりますね。
■「からまりしろ」がある建築を受け入れる心構え
どうやら、閉じきってはいない建築のような雰囲気がありますね。今までの男前建築では、わがままを言いやすかった事が、「からまりしろ」がある建築では人間が「ほんの少し我慢する」とか、「ほんの少し許容する」ということも楽しみたくなるような建築ですね。
建築内なのに、風が心地よいとか、あそこに行きたいけど雨に濡れるとか、手を伸ばせばお隣さんから醤油を貸してもらえるとか(笑)。現代人の感覚では面倒だと思う手間が、逆にこちらから手をかけたくなるような、ウルウル目のチワワのような建築かなあ。
「ほんの少し我慢すると、得られる幸福あります。」っていうのが、「からまりしろ」がある建築の特徴かもしれませんよ。
・関連項目
せんだいスクール・オブ・デザイン03
平田晃久インタビュー「建築とはからまりしろをつくることである」