僕は、使えない新番組の提案を何度かさせていただいたことがあります。中田千彦さんは、いとも簡単に企画を通してしまいました。それもそのはず、ご提案の「しりとり」は、誰でも、簡単に、建築系ラジオメンバーが活き活きとする飲み会の席でも楽しめる遊びだからです。
山崎泰寛さんのインタビュー(「建築外からのモチベーション 保健室から建築へ」)でも、建築の教育について語っておられましたが、このしりとりは教育に使えるんではないでしょうか。
大人には、知識のバロメーターとして使えるし、子供でも楽しめますね。よく、テレビであるじゃないですか、小学生なのに日本全国の鉄道の路線を順番に言える子。または、世界の国旗や首都を全て言い当てる子。大人も感心する程の知識量ですよね。
ただ、問題は、子供が建築に興味を持てるか?です。ちなみに平凡なうちの子は、某テレビ局のリフォーム番組の破壊シーンは大好きなのですが、奇麗になったお家には興味がないようです(笑)。興味がないと言っても現実の体験として、冷やかし(?)で内覧会にいっしょに行くとすごく喜ぶんです。体験を伴わない映像で見るとつまらないようです。
かっこいいお家か、かわいいお家なら、映像だけでも子供心にズキューン!と響くはず。どんなお家が好きでしょう。そういうお家って、多分、分かりやすいフォームを持っているんでしょうね。ロボットみたいとか、ハートマークみたいとか。
うーん、考えてみると、ロボットはロボットだし、ハートマークは、ハートだし、電車も電車だし、他の何かに例えて表現する必要はない存在ですね。お家も、いわゆる家型であれば、何かに例えて表現する必要もないですが、そうではない場合は、何かを参照して語りたくなります。「何々みたい〜」って。
建築らしいフォームってありますかね。
だれでも、ピンっ!とくるフォームがある方が良いのか、そうではないのか・・・。今、定着している家型が、定着する前って、やっぱりアイコン的な姿として認識されていたのでしょうか。自動車は機能美であの形が定着しているし、バイクもしかり。雨を凌ぐ形として、家型は合理的ですよね。自動車もバイクも使う人と「一緒に移動する」という感情を持たせますね。ガンダムの人気も、人型であるので「手足を機能的に強化したような」感覚があって感情移入しやすいのではないかと思います。自分の分身のような。モビルスーツって言いますもんね。対して今の建築は、建築の内部を移動しているので、他者的な感覚が強くて、自分の体の一部のような感覚が少ないですね。
他人のような感覚を住まいに抱いてしまうのは、住む人がどれだけ建築をつくる時に関われたかが影響ある気がします。頭だけで考えた行動とくらべると、自分の手から得た情報を元に行動した方が感覚を総動員しやすく、思い入れが深くなりますよね。
住宅の言葉のイメージと「建築」という言葉へのイメージって、なんだか違うような気がします。住宅や住居というと、一般的にも身近な存在として意識しやすいのですが、建築という言葉だと遠い世界の存在とか、気難しい存在というイメージを僕は漠然と持っていました。建築と住宅は違うと言う方もいますが、集合体として見ると建築なのでしょうか。集合体でみると「都市」という呼び方になりますか?もし、自分がコントロールできる許容範囲の大きさや周辺に与える影響度が基準であれば、住宅も十分建築と言えると思います。個体で見ずに集合体で見ると意識が違ってきますかね。新築にしても様々な部品を組み立てて全体ができていますから、住宅も地域や都市の部品でしょうか。
建築への関心と、ロボットや車への興味度合いが違うのは、世の中に浸透したコレクター魂をくすぐるフォームが思い浮かぶかどうかに左右されているように思います。この辺の感覚が、建築に対する一般的な興味との関連性があるような気がします。
だいぶ脱線してしまいました。
子供達がもし、コルビュジェだの、篠原一男だのと、しりとり遊びを始めたら、すごいですよ、多分。決勝戦ともなると、テニスのウィンブルドン選手権のように、周りの大人達は、一斉に左の子を見たり、右の子を見たりで、激しいリターンの応酬が展開されそうですね(笑)。こうして建築界は、安泰だあ!
・関連項目
44A: 宮城「建築系しりとり」選手権
山崎泰寛さんのインタビュー(「建築外からのモチベーション 保健室から建築へ」)でも、建築の教育について語っておられましたが、このしりとりは教育に使えるんではないでしょうか。
大人には、知識のバロメーターとして使えるし、子供でも楽しめますね。よく、テレビであるじゃないですか、小学生なのに日本全国の鉄道の路線を順番に言える子。または、世界の国旗や首都を全て言い当てる子。大人も感心する程の知識量ですよね。
ただ、問題は、子供が建築に興味を持てるか?です。ちなみに平凡なうちの子は、某テレビ局のリフォーム番組の破壊シーンは大好きなのですが、奇麗になったお家には興味がないようです(笑)。興味がないと言っても現実の体験として、冷やかし(?)で内覧会にいっしょに行くとすごく喜ぶんです。体験を伴わない映像で見るとつまらないようです。
かっこいいお家か、かわいいお家なら、映像だけでも子供心にズキューン!と響くはず。どんなお家が好きでしょう。そういうお家って、多分、分かりやすいフォームを持っているんでしょうね。ロボットみたいとか、ハートマークみたいとか。
うーん、考えてみると、ロボットはロボットだし、ハートマークは、ハートだし、電車も電車だし、他の何かに例えて表現する必要はない存在ですね。お家も、いわゆる家型であれば、何かに例えて表現する必要もないですが、そうではない場合は、何かを参照して語りたくなります。「何々みたい〜」って。
建築らしいフォームってありますかね。
だれでも、ピンっ!とくるフォームがある方が良いのか、そうではないのか・・・。今、定着している家型が、定着する前って、やっぱりアイコン的な姿として認識されていたのでしょうか。自動車は機能美であの形が定着しているし、バイクもしかり。雨を凌ぐ形として、家型は合理的ですよね。自動車もバイクも使う人と「一緒に移動する」という感情を持たせますね。ガンダムの人気も、人型であるので「手足を機能的に強化したような」感覚があって感情移入しやすいのではないかと思います。自分の分身のような。モビルスーツって言いますもんね。対して今の建築は、建築の内部を移動しているので、他者的な感覚が強くて、自分の体の一部のような感覚が少ないですね。
他人のような感覚を住まいに抱いてしまうのは、住む人がどれだけ建築をつくる時に関われたかが影響ある気がします。頭だけで考えた行動とくらべると、自分の手から得た情報を元に行動した方が感覚を総動員しやすく、思い入れが深くなりますよね。
住宅の言葉のイメージと「建築」という言葉へのイメージって、なんだか違うような気がします。住宅や住居というと、一般的にも身近な存在として意識しやすいのですが、建築という言葉だと遠い世界の存在とか、気難しい存在というイメージを僕は漠然と持っていました。建築と住宅は違うと言う方もいますが、集合体として見ると建築なのでしょうか。集合体でみると「都市」という呼び方になりますか?もし、自分がコントロールできる許容範囲の大きさや周辺に与える影響度が基準であれば、住宅も十分建築と言えると思います。個体で見ずに集合体で見ると意識が違ってきますかね。新築にしても様々な部品を組み立てて全体ができていますから、住宅も地域や都市の部品でしょうか。
建築への関心と、ロボットや車への興味度合いが違うのは、世の中に浸透したコレクター魂をくすぐるフォームが思い浮かぶかどうかに左右されているように思います。この辺の感覚が、建築に対する一般的な興味との関連性があるような気がします。
だいぶ脱線してしまいました。
子供達がもし、コルビュジェだの、篠原一男だのと、しりとり遊びを始めたら、すごいですよ、多分。決勝戦ともなると、テニスのウィンブルドン選手権のように、周りの大人達は、一斉に左の子を見たり、右の子を見たりで、激しいリターンの応酬が展開されそうですね(笑)。こうして建築界は、安泰だあ!
・関連項目
44A: 宮城「建築系しりとり」選手権