そうなんですよね、インターネットと比べると本を読む方が好きで、インターネットを見ていると時間を損したような感覚になります。
気が付いたら時間が結構経っていて、結局は頭に何も入っていないような気がするし、したかったことが何も進んでいないという思いに支配されています。インターネットの情報って、他人の家を覗いているような感覚があって、物質的な感触が無いせいなのか、その世界に入り込みにくいような気がします。
一方、本を手にしている時は、この本を買ったという行為にも原因があるのかもしれませんが、所有している満足感があり、自分が書いた本ではないのに、自分の本として、自分の知識に成り得る存在として、頼もしいものとなっています。iPhoneやiPadを触ったことがないのですが(生きた化石?)、また違った感覚なのでしょうか。想像するに、無機質な物質を介して得られる情報に色気は感じないような気がしてます。こんなこと言ってたら取り残されますね(笑)。
インターネットの情報は、タダであるという事への意識から、いつでも見れるという思いとなって、その知識を自分の内部に取込む意識が薄れるのでしょうかね。携帯電話などで気軽に持ち運びできますからね。身近な例を挙げてみても、パソコンに頼った生活をしているためか、歳のせいなのか、漢字が出てこないですね・・・。薔薇なんて絶対書けないし、覚える気力がないので、こういったネタの話の度に、書けない漢字として登場してきます(笑)。
パブリック的な感覚のインターネットと、プライベート的な感覚の本。
そうか、空間的な原因もあるのかもしれませんね。パソコンという機械を介して世界中に接続しているのだけれども、体感的に情報と同じ空間に存在していない自分を感じます。セカンドライフのように、たとえ自分の分身がネットの世界にいても、情報と同じ空間にいるという感覚が薄れていそうです。そして、自分以外の他者の存在がありますね。
反対に、本を手に取り、文字の羅列から自分の頭の中に浮かんで来た映像のような世界に意識が入り込んだ時は、情報と自分の精神や肉体までもが同じ空間に存在しているような感覚になります。特に、小説のような物語性がある文字情報は、それが強いと思います。著者の世界に、特別に招待されたような感覚でしょうか。
同じ仮想空間ですが、入り口を開く手段やその先の世界によって、得られる感覚が違うのかもしれませんね。本の歴史はインターネットよりも古いので、自分のDNAに本を開く行為に対する慣れた感覚が刻まれているのかも。
インターネットは内容が薄いという指摘がありましたが、インターネットに向かう制作者の気軽さと、本に向かう制作者の真剣さが違う気がします。
つまり、お金?
気軽さには執念がなく、売らなければならない!という感覚が不要だと。そう、「執念」がないですね。もちろん、皆がそうというわけではないのですが、「見返り」があると人は頑張りやすいのでしょう。なにかと引き換えに、何かをするという生活に慣れていますから。それが、書き物の内容に影響してますね。伝えたい事が先にあるのか、それともお金が目的なのかで、制作者の生き様がブログに表れるのでしょう・・・。(えっ、僕?はっはっは〜)
お金を排除することは不可能でしょうけど、つくったものが直接お金を生むのではなく、間接的にお金を生むような事態になれば、そのメディアは次の段階へとたどり着けるのかもしれません。結果的にタダではないのがポイントで、かつメディアそれ自体に何のしがらみもなくなれば。
でも、北川さんのコメントがごもっともで、「読み方」ですね。本当にそうだと思いました。与えられた情報をどうしたいか、どうするべきかを情報を得た本人が考える。そして行動をするんですね。動ける人間になれるかどうかは非常に大きいです。僕が言うのもなんですが。
こうして考えると、建築系ラジオはうまくできていて、パソコンから他者がつくったインターネットの世界に一旦入るのですが、その世界で得られた情報は、自分の耳を介して、自分の頭の中で映像化されます。ほんの少しのタイムラグで他者の世界と自分の世界を行き来しているんですね。両者の垣根を突き崩す兆しを感じます。しかも、ダウンロードをしてしまうと、所有感も得られます。ダウンロードができるということもポイントですね。そして、収録自体がリスナーを行動させています。2つの仮想世界と現実世界、そして日本以外にも接続していこうとしている建築系ラジオ。うわ〜、建築系ラジオから新しいプロジェクトや建築が生まれる日も近いかも!?複雑な構造を持っているメディアに変容できそうな予感というか、期待があるのですが、まだまだ可能性がありそうです。皆さんも、メディアを変える当事者ですよっ!
・関連項目
メディア環境の変容について
気が付いたら時間が結構経っていて、結局は頭に何も入っていないような気がするし、したかったことが何も進んでいないという思いに支配されています。インターネットの情報って、他人の家を覗いているような感覚があって、物質的な感触が無いせいなのか、その世界に入り込みにくいような気がします。
一方、本を手にしている時は、この本を買ったという行為にも原因があるのかもしれませんが、所有している満足感があり、自分が書いた本ではないのに、自分の本として、自分の知識に成り得る存在として、頼もしいものとなっています。iPhoneやiPadを触ったことがないのですが(生きた化石?)、また違った感覚なのでしょうか。想像するに、無機質な物質を介して得られる情報に色気は感じないような気がしてます。こんなこと言ってたら取り残されますね(笑)。
インターネットの情報は、タダであるという事への意識から、いつでも見れるという思いとなって、その知識を自分の内部に取込む意識が薄れるのでしょうかね。携帯電話などで気軽に持ち運びできますからね。身近な例を挙げてみても、パソコンに頼った生活をしているためか、歳のせいなのか、漢字が出てこないですね・・・。薔薇なんて絶対書けないし、覚える気力がないので、こういったネタの話の度に、書けない漢字として登場してきます(笑)。
パブリック的な感覚のインターネットと、プライベート的な感覚の本。
そうか、空間的な原因もあるのかもしれませんね。パソコンという機械を介して世界中に接続しているのだけれども、体感的に情報と同じ空間に存在していない自分を感じます。セカンドライフのように、たとえ自分の分身がネットの世界にいても、情報と同じ空間にいるという感覚が薄れていそうです。そして、自分以外の他者の存在がありますね。
反対に、本を手に取り、文字の羅列から自分の頭の中に浮かんで来た映像のような世界に意識が入り込んだ時は、情報と自分の精神や肉体までもが同じ空間に存在しているような感覚になります。特に、小説のような物語性がある文字情報は、それが強いと思います。著者の世界に、特別に招待されたような感覚でしょうか。
同じ仮想空間ですが、入り口を開く手段やその先の世界によって、得られる感覚が違うのかもしれませんね。本の歴史はインターネットよりも古いので、自分のDNAに本を開く行為に対する慣れた感覚が刻まれているのかも。
インターネットは内容が薄いという指摘がありましたが、インターネットに向かう制作者の気軽さと、本に向かう制作者の真剣さが違う気がします。
つまり、お金?
気軽さには執念がなく、売らなければならない!という感覚が不要だと。そう、「執念」がないですね。もちろん、皆がそうというわけではないのですが、「見返り」があると人は頑張りやすいのでしょう。なにかと引き換えに、何かをするという生活に慣れていますから。それが、書き物の内容に影響してますね。伝えたい事が先にあるのか、それともお金が目的なのかで、制作者の生き様がブログに表れるのでしょう・・・。(えっ、僕?はっはっは〜)
お金を排除することは不可能でしょうけど、つくったものが直接お金を生むのではなく、間接的にお金を生むような事態になれば、そのメディアは次の段階へとたどり着けるのかもしれません。結果的にタダではないのがポイントで、かつメディアそれ自体に何のしがらみもなくなれば。
でも、北川さんのコメントがごもっともで、「読み方」ですね。本当にそうだと思いました。与えられた情報をどうしたいか、どうするべきかを情報を得た本人が考える。そして行動をするんですね。動ける人間になれるかどうかは非常に大きいです。僕が言うのもなんですが。
こうして考えると、建築系ラジオはうまくできていて、パソコンから他者がつくったインターネットの世界に一旦入るのですが、その世界で得られた情報は、自分の耳を介して、自分の頭の中で映像化されます。ほんの少しのタイムラグで他者の世界と自分の世界を行き来しているんですね。両者の垣根を突き崩す兆しを感じます。しかも、ダウンロードをしてしまうと、所有感も得られます。ダウンロードができるということもポイントですね。そして、収録自体がリスナーを行動させています。2つの仮想世界と現実世界、そして日本以外にも接続していこうとしている建築系ラジオ。うわ〜、建築系ラジオから新しいプロジェクトや建築が生まれる日も近いかも!?複雑な構造を持っているメディアに変容できそうな予感というか、期待があるのですが、まだまだ可能性がありそうです。皆さんも、メディアを変える当事者ですよっ!
・関連項目
メディア環境の変容について