本を買いました。
『アルゴリズミック・デザイン』日本建築学会編と、『10+1 アルゴリズム的思考と建築』の2冊です。購買意欲が貪欲で困ります。そういえば、独身時代は車を衝動買いした経験があります・・。
ラジオでの議論を聞いて、関連する図書を読んで、またラジオを聞き直すと理解が深まって行く気がします。(気がしますというのは、僕の理解力の問題があるので・・・。)
どうも、アルゴリズミック・デザインによって導きだされた形態は、僕の好みのようです。『アルゴリズミック・デザイン』で例示されているものは、現在の所、線状の構造体が連続しているものが多いですが、僕の心をわしづかみです(笑)。ハッキリとした面状の境界線ではなくて、物質の延長線上の仮想的な面がいいです。僕は、建築中の建物に、なぜか惹かれる傾向があります。実は、工場オタクかもしれません。山田さんの「笹田学園田町校舎」のコンバージョンは、カッコいいと思います。
本とラジオの内容と照らし合わせてみると、アルゴリズミック・デザインの手法は、ある種の生命体をつくろうとしているのではないかと思います。ラジオで「種」と呼ばれている情報入力源は、いわばDNAの源です。現実界において、例えば人の例をみると、赤ちゃんは両親の性質を生まれながらに持っています。赤ちゃんは、現実的な外界で経験を積んでいないにもかかわらずです。(似なくて良いところが似るんですよね〜・・。)様々な経験を積んで人は成長するものですが、この経験は逐次DNAに組み込まれていくものなのでしょうか?経験を積んでデータベース化し、取捨択一していって最良と思われる結果を得る「量から質へ」のプロセスは、生命体と共通するものがあります。でも、最初のDNAの源によって、この生命体が一体何者なのかが決まってきますね。最初の種は誰が決めたのでしょう・・。
現実界の生命体を見てみると、ほぼ例外なく男と女、雌雄が存在し、互いに影響しあって進化しています。良くないプログラムは自然淘汰されています(人間に関しては医療技術によって良くないプログラムも選択されますが、あっ、でも美人薄命ともいいますから、僕としては助かってます。)。アルゴリズミック・デザインも、もしかすると2つ以上の視点の違う入力源を掛け合わせると、誰それがつくったものという概念が薄れて、作為的な形態が緩和されるかもしれませんね。
将来的には、医療技術がアルゴリズミック・デザインの技術に応用されて取り込まれる可能性もありそうです。構造体も参考になりますね。DNAをデータ化して外部化できると、鈴木光司さんの小説『リング』、『らせん』、『ループ』シリーズのような事件が本当に起こりうると思います。『アルゴリズミック・デザイン』内で紹介されている「マルチエージェントシステム(MAS)」なんて、本当に『ループ』の世界のようです。
建築素材に関しては、コンピュータ内で形態を発生させるようなイメージで、実空間内でも、素材の分子の隙間にICチップを埋め込んで、チップに組み込まれたDNA情報に沿って生成・修復を自発的にできるのではないかと思います。有機的な素材であれば、無毒化したウイルスや、ガン細胞を利用して自発性を高められそうですね。
アルゴリズミック・デザインが当たり前になった後の建築家像を考えてみますと、どんな建築家を目指せば良いでしょうか。
なんでもかんでもプログラムに任せられるようになると、現在の建築家としての振る舞いは、利用価値が薄れてくるように感じます。「AMO」のようなリサーチ能力が大前提となりそうです。良質な種が良質な結果を得る条件になりますから。最初の種もプログラムで探索するようになると、建築家という職業が危うくなる可能性もあります。(困りましたね・・・。考え過ぎですか。)
設計プロセスは以下のようなイメージでしょうか。
1.目的と環境と、そこから発見した最初の視点を情報源として入力する。所員のそれぞれの視点を片っ端から入力する。(もしかして、所員が不要に?)
2.プログラムが目的に近い解答を出すまで、建築家は他の視点を模索する。
3.新しい視点が発見できれば、追加入力する。
4.やっぱり最後は人の手で選びたい。
・・・。
設計として楽しくなさそうです・・・。
特に学生コンペの審査員をされている方は、コンペ案を出した人物の将来を楽しみにしているから、審査するわけで、コンピュータにそこまで何かを感情を込めて期待できるかどうか。だから、ただ結果を選ぶだけの作業は飽きると思います。
考えられる課題は、
1.形態、構成が納得できるものへと成長するまでに時間がかかる
ようになる。(プログラムは、妥協できないだけに厄介。)
情報処理のスピードがハード的に追いつくか・・・。現在のC
ADでさえ、新しいバージョンはドンドン処理が重くなってい
る現状があります。
2.視点からの結果が似たようなものになり、作業を繰り返しても
なかなか納得できるものを得られない。最初の視点探索をプロ
グラムに頼りたくなる。そして、人間は考えなくなる・・・。
3.考えなくなった建築家、エスキス経験を積んでいない建築家が
そもそも良質な情報を最初の種として入力できるかどうか。現
在は、まだきちんと頭と手と足で考えているから、斬新で発見
的なアイデアを生む建築家が沢山いますが、考えなくなったら、
新しい視点に気づかなくなるような気がします。
考えられる対策は、
1.設計補助的なものとしてアルゴリズミック・デザインを導入す
る。(頑に・・・。)極端な話、戦争、災害でコンピュータが
役に立たない環境だと、プログラムに頼り切っていた建築家は
何もできなくなる。最後はグレン・マーカットさんだけが建築
家として生きられる(笑)。情報の内部化も大切ですね。
2.プログラムそのものに建築家自ら手を加えて他の軌道をリアル
タイムに試す。(違うプロセス。)
プログラムを自ら組めるということは、プログラムの内部処理を整理できていて、理解しているということですから、プロセスがブラックボックス化されていないということになります。プログラムの中身を知らなくても、誰でも良質な結果を得られるという発想は、組み込まれたプロセスの中での良質な結果ということであり、「井の中の蛙」ということになりかねないと思います。
やっぱり、プログラムが組めて、歌って踊れる建築家でないと生き残れないのでしょうね(笑)。
(思ひ出のコメントー初出:2009.7.4)
・関連項目
テーマ討議 アルゴリズミック・デザインをめぐって2
アルゴリズム、方法論の多様性と対立性
『アルゴリズミック・デザイン』日本建築学会編と、『10+1 アルゴリズム的思考と建築』の2冊です。購買意欲が貪欲で困ります。そういえば、独身時代は車を衝動買いした経験があります・・。
ラジオでの議論を聞いて、関連する図書を読んで、またラジオを聞き直すと理解が深まって行く気がします。(気がしますというのは、僕の理解力の問題があるので・・・。)
どうも、アルゴリズミック・デザインによって導きだされた形態は、僕の好みのようです。『アルゴリズミック・デザイン』で例示されているものは、現在の所、線状の構造体が連続しているものが多いですが、僕の心をわしづかみです(笑)。ハッキリとした面状の境界線ではなくて、物質の延長線上の仮想的な面がいいです。僕は、建築中の建物に、なぜか惹かれる傾向があります。実は、工場オタクかもしれません。山田さんの「笹田学園田町校舎」のコンバージョンは、カッコいいと思います。
本とラジオの内容と照らし合わせてみると、アルゴリズミック・デザインの手法は、ある種の生命体をつくろうとしているのではないかと思います。ラジオで「種」と呼ばれている情報入力源は、いわばDNAの源です。現実界において、例えば人の例をみると、赤ちゃんは両親の性質を生まれながらに持っています。赤ちゃんは、現実的な外界で経験を積んでいないにもかかわらずです。(似なくて良いところが似るんですよね〜・・。)様々な経験を積んで人は成長するものですが、この経験は逐次DNAに組み込まれていくものなのでしょうか?経験を積んでデータベース化し、取捨択一していって最良と思われる結果を得る「量から質へ」のプロセスは、生命体と共通するものがあります。でも、最初のDNAの源によって、この生命体が一体何者なのかが決まってきますね。最初の種は誰が決めたのでしょう・・。
現実界の生命体を見てみると、ほぼ例外なく男と女、雌雄が存在し、互いに影響しあって進化しています。良くないプログラムは自然淘汰されています(人間に関しては医療技術によって良くないプログラムも選択されますが、あっ、でも美人薄命ともいいますから、僕としては助かってます。)。アルゴリズミック・デザインも、もしかすると2つ以上の視点の違う入力源を掛け合わせると、誰それがつくったものという概念が薄れて、作為的な形態が緩和されるかもしれませんね。
将来的には、医療技術がアルゴリズミック・デザインの技術に応用されて取り込まれる可能性もありそうです。構造体も参考になりますね。DNAをデータ化して外部化できると、鈴木光司さんの小説『リング』、『らせん』、『ループ』シリーズのような事件が本当に起こりうると思います。『アルゴリズミック・デザイン』内で紹介されている「マルチエージェントシステム(MAS)」なんて、本当に『ループ』の世界のようです。
建築素材に関しては、コンピュータ内で形態を発生させるようなイメージで、実空間内でも、素材の分子の隙間にICチップを埋め込んで、チップに組み込まれたDNA情報に沿って生成・修復を自発的にできるのではないかと思います。有機的な素材であれば、無毒化したウイルスや、ガン細胞を利用して自発性を高められそうですね。
■「今後の建築家の存在意義」
アルゴリズミック・デザインが当たり前になった後の建築家像を考えてみますと、どんな建築家を目指せば良いでしょうか。
なんでもかんでもプログラムに任せられるようになると、現在の建築家としての振る舞いは、利用価値が薄れてくるように感じます。「AMO」のようなリサーチ能力が大前提となりそうです。良質な種が良質な結果を得る条件になりますから。最初の種もプログラムで探索するようになると、建築家という職業が危うくなる可能性もあります。(困りましたね・・・。考え過ぎですか。)
設計プロセスは以下のようなイメージでしょうか。
1.目的と環境と、そこから発見した最初の視点を情報源として入力する。所員のそれぞれの視点を片っ端から入力する。(もしかして、所員が不要に?)
2.プログラムが目的に近い解答を出すまで、建築家は他の視点を模索する。
3.新しい視点が発見できれば、追加入力する。
4.やっぱり最後は人の手で選びたい。
・・・。
設計として楽しくなさそうです・・・。
特に学生コンペの審査員をされている方は、コンペ案を出した人物の将来を楽しみにしているから、審査するわけで、コンピュータにそこまで何かを感情を込めて期待できるかどうか。だから、ただ結果を選ぶだけの作業は飽きると思います。
考えられる課題は、
1.形態、構成が納得できるものへと成長するまでに時間がかかる
ようになる。(プログラムは、妥協できないだけに厄介。)
情報処理のスピードがハード的に追いつくか・・・。現在のC
ADでさえ、新しいバージョンはドンドン処理が重くなってい
る現状があります。
2.視点からの結果が似たようなものになり、作業を繰り返しても
なかなか納得できるものを得られない。最初の視点探索をプロ
グラムに頼りたくなる。そして、人間は考えなくなる・・・。
3.考えなくなった建築家、エスキス経験を積んでいない建築家が
そもそも良質な情報を最初の種として入力できるかどうか。現
在は、まだきちんと頭と手と足で考えているから、斬新で発見
的なアイデアを生む建築家が沢山いますが、考えなくなったら、
新しい視点に気づかなくなるような気がします。
考えられる対策は、
1.設計補助的なものとしてアルゴリズミック・デザインを導入す
る。(頑に・・・。)極端な話、戦争、災害でコンピュータが
役に立たない環境だと、プログラムに頼り切っていた建築家は
何もできなくなる。最後はグレン・マーカットさんだけが建築
家として生きられる(笑)。情報の内部化も大切ですね。
2.プログラムそのものに建築家自ら手を加えて他の軌道をリアル
タイムに試す。(違うプロセス。)
プログラムを自ら組めるということは、プログラムの内部処理を整理できていて、理解しているということですから、プロセスがブラックボックス化されていないということになります。プログラムの中身を知らなくても、誰でも良質な結果を得られるという発想は、組み込まれたプロセスの中での良質な結果ということであり、「井の中の蛙」ということになりかねないと思います。
やっぱり、プログラムが組めて、歌って踊れる建築家でないと生き残れないのでしょうね(笑)。
(思ひ出のコメントー初出:2009.7.4)
・関連項目
テーマ討議 アルゴリズミック・デザインをめぐって2
アルゴリズム、方法論の多様性と対立性