新しいコンテンツですね!本がまたまた欲しくなるようなコーナーです。
さて、建築が消費されているということはどういうことを言うのでしょう。
単純に考えれば、使い捨ての建築ということでしょうけれども、使用サイクルの長短だけでは語れないものがありますね。なぜそうなったのかを考える必要がありそうです。
大方の動物は、巣が必要で自ら巣作りをしますよね。かつての日本でも、近所の人達が手伝って茅葺き屋根を葺き替えたり、米ぬかで柱を磨いたり、専門業者に頼まなくても自らの手によってメンテナンスしていた時代もありました。うちのばあちゃんだって、じいちゃんが動いてくれないから(苦笑)自分で平屋の屋根瓦を葺き替えていたそうです。
建築が消費されるという状態に陥ったのは、どうも、お金と引き換えに建物のメンテナンスなりをやってもらおうという発想が出て来てからのように思います。
やっぱり、愛着があるかないかは大きいですよ。住居に対して車に抱く程の愛着って皆さん持っているのでしょうか?僕らの若い時代(今も若いですけど・・)は、土足厳禁やってる奴がいましたからね。今の時代は、車にさえも興味がなくなっているようですけど・・。愛車といわれる存在の車なら、自らの手で洗車します。自らの手でメンテナンスすることにより、丁寧な仕事になり、車に愛着を持つようになりますよね。
例えば自らの住居を軽く扱ってしまうというのは、こだわりや愛着がない状態ということですよね。極端に言えば雨風をしのいで寝る場所があればいいという機能重視の考え方です。ついでにメンテナンスフリーへの憧れ。面倒な事はやりたくないですからね。メンテナンスをしたくなる車とメンテナンスを他人の手に委ねたくなる住居の違いは、個人の独占率とスケールでしょうか。例え愛着があるとしても、どこかのテレビで見た家を理想の家としてしまう。
住居は一般的には、買うものになってしまっていて、不具合が見つかったらクレームは言うがメンテナンスはしませんよね。メンテナンスができなくなっています。それが当たり前になっていますよね。気が付いたらお金を出すだけの人になっています。そうか、お金出してんだから、やってよという考え方になってしまいますもんね。感謝の気持ちも薄れてしまうのは仕方がないのかもしれません。
話題に出ていた、ショッピングモールを歩いている時の自分を思い返しても、自分の存在でさえ、まわりにいる人達に消費させるための雰囲気作りに気が付かないまま参加しています。
こんな事を考えながら、五十嵐さんの翻訳を聞くと、気になりますね。昔にすがりつかず、踊るだけではなくて、自分は消費されない。そして、消費の海の対岸まで泳ぎきった、さらにその先に行く。消費者として過ごして来た人間としては、すごく困難な事に思えて来ます。いや、実際に困難な事を伊東さんは成し遂げていますね。
(南さんが伊東さんから得たその方法をおっしゃっています。簡単な答えなんですが、簡単にできないです。気になる方は聞いてね。)
消費の海の向こう側って、建築のありかただけではたどり着けない気がするんです。人のつながり方も新しく提案し、実現できないとなにも変わらない気がします。それって、果たして建築の力、プログラムや間取りのようなものだけで実現可能なのでしょうか。限定された敷地内の閉じられた建物一つで完結するだけでは、なかなか難しそうです。建築の力かあ。建築の力ってどんなものがあるのでしょう。
未完成の建築ってパワーがありそうだと思いませんか?未完成の部分に他者が入り込める余地がある気がします。サグラダ・ファミリアではないですけど。
河川敷によくコンビニのゴミが落ちています。河川敷にゴミを捨てられるという感覚は、そこは自分の領域ではないという気持ちがあるからだと思うんです。きっと、外でゴミを散らかせる人でも、自分の家ではゴミ箱にきちんと捨てているのでしょう。自分の独占的な領域でない場所はどうでもいいという感覚ですね。
戸建てで売ったり買ってきた住居への感覚が、そうさせてしまうという可能性も否定できません。個人が愛着を持てる領域を増やさない限り、建築は消費される存在のままかもしれません。専門家が思っている程、建築によって違う存在感を感じ取れる人はそんなにいないでしょう。だからこそ、軽い建築でも平気で一生をかける程の高いお金をつぎ込めるのだと思います。僕も建築に興味を持つ前は、建築の存在は気にした事がありませんでした。安藤忠雄さんの存在さえも知りませんでした。今では美術館に行っても建築にばかり気が向かうので困りますけど・・。
それにしても、伊東さんの海に例える言い回しがいいですね。はっきりとは言わないことが、逆に何だろう?と読者は考えるようになります。俳句とか短歌とか川柳とか、日本の知的で繊細な文化と通じるところがあって、一流の人は何をやっても一流なんですね。
余談ですが、消費の海を泳ぎきろうという心意気は、泳ぎ方は違いますが藤村龍至さんと似ているような気もしました。目的地は似ているのかもしれませんね。
・関連項目
声に出して読みたい建築論
伊東豊雄「消費の海に浸らずして新しい建築はない」(1989)を読む [1/2]
伊東豊雄「消費の海に浸らずして新しい建築はない」(1989)を読む [2/2]
さて、建築が消費されているということはどういうことを言うのでしょう。
単純に考えれば、使い捨ての建築ということでしょうけれども、使用サイクルの長短だけでは語れないものがありますね。なぜそうなったのかを考える必要がありそうです。
大方の動物は、巣が必要で自ら巣作りをしますよね。かつての日本でも、近所の人達が手伝って茅葺き屋根を葺き替えたり、米ぬかで柱を磨いたり、専門業者に頼まなくても自らの手によってメンテナンスしていた時代もありました。うちのばあちゃんだって、じいちゃんが動いてくれないから(苦笑)自分で平屋の屋根瓦を葺き替えていたそうです。
建築が消費されるという状態に陥ったのは、どうも、お金と引き換えに建物のメンテナンスなりをやってもらおうという発想が出て来てからのように思います。
やっぱり、愛着があるかないかは大きいですよ。住居に対して車に抱く程の愛着って皆さん持っているのでしょうか?僕らの若い時代(今も若いですけど・・)は、土足厳禁やってる奴がいましたからね。今の時代は、車にさえも興味がなくなっているようですけど・・。愛車といわれる存在の車なら、自らの手で洗車します。自らの手でメンテナンスすることにより、丁寧な仕事になり、車に愛着を持つようになりますよね。
例えば自らの住居を軽く扱ってしまうというのは、こだわりや愛着がない状態ということですよね。極端に言えば雨風をしのいで寝る場所があればいいという機能重視の考え方です。ついでにメンテナンスフリーへの憧れ。面倒な事はやりたくないですからね。メンテナンスをしたくなる車とメンテナンスを他人の手に委ねたくなる住居の違いは、個人の独占率とスケールでしょうか。例え愛着があるとしても、どこかのテレビで見た家を理想の家としてしまう。
住居は一般的には、買うものになってしまっていて、不具合が見つかったらクレームは言うがメンテナンスはしませんよね。メンテナンスができなくなっています。それが当たり前になっていますよね。気が付いたらお金を出すだけの人になっています。そうか、お金出してんだから、やってよという考え方になってしまいますもんね。感謝の気持ちも薄れてしまうのは仕方がないのかもしれません。
話題に出ていた、ショッピングモールを歩いている時の自分を思い返しても、自分の存在でさえ、まわりにいる人達に消費させるための雰囲気作りに気が付かないまま参加しています。
こんな事を考えながら、五十嵐さんの翻訳を聞くと、気になりますね。昔にすがりつかず、踊るだけではなくて、自分は消費されない。そして、消費の海の対岸まで泳ぎきった、さらにその先に行く。消費者として過ごして来た人間としては、すごく困難な事に思えて来ます。いや、実際に困難な事を伊東さんは成し遂げていますね。
(南さんが伊東さんから得たその方法をおっしゃっています。簡単な答えなんですが、簡単にできないです。気になる方は聞いてね。)
消費の海の向こう側って、建築のありかただけではたどり着けない気がするんです。人のつながり方も新しく提案し、実現できないとなにも変わらない気がします。それって、果たして建築の力、プログラムや間取りのようなものだけで実現可能なのでしょうか。限定された敷地内の閉じられた建物一つで完結するだけでは、なかなか難しそうです。建築の力かあ。建築の力ってどんなものがあるのでしょう。
未完成の建築ってパワーがありそうだと思いませんか?未完成の部分に他者が入り込める余地がある気がします。サグラダ・ファミリアではないですけど。
河川敷によくコンビニのゴミが落ちています。河川敷にゴミを捨てられるという感覚は、そこは自分の領域ではないという気持ちがあるからだと思うんです。きっと、外でゴミを散らかせる人でも、自分の家ではゴミ箱にきちんと捨てているのでしょう。自分の独占的な領域でない場所はどうでもいいという感覚ですね。
戸建てで売ったり買ってきた住居への感覚が、そうさせてしまうという可能性も否定できません。個人が愛着を持てる領域を増やさない限り、建築は消費される存在のままかもしれません。専門家が思っている程、建築によって違う存在感を感じ取れる人はそんなにいないでしょう。だからこそ、軽い建築でも平気で一生をかける程の高いお金をつぎ込めるのだと思います。僕も建築に興味を持つ前は、建築の存在は気にした事がありませんでした。安藤忠雄さんの存在さえも知りませんでした。今では美術館に行っても建築にばかり気が向かうので困りますけど・・。
それにしても、伊東さんの海に例える言い回しがいいですね。はっきりとは言わないことが、逆に何だろう?と読者は考えるようになります。俳句とか短歌とか川柳とか、日本の知的で繊細な文化と通じるところがあって、一流の人は何をやっても一流なんですね。
余談ですが、消費の海を泳ぎきろうという心意気は、泳ぎ方は違いますが藤村龍至さんと似ているような気もしました。目的地は似ているのかもしれませんね。
・関連項目
声に出して読みたい建築論
伊東豊雄「消費の海に浸らずして新しい建築はない」(1989)を読む [1/2]
伊東豊雄「消費の海に浸らずして新しい建築はない」(1989)を読む [2/2]