いよいよ最終回です。
最後は参加されたみなさんからの討議の感想です。
北川さんの質問に対して藤村さんが、愛なき力と力なき愛が切れているのが現代社会だと思っていて、2項対立を乗り越えるためには愛と力をつながなきゃいけない。それこそが批判的工学主義である。とおっしゃっていました。愛ある建築家が力を持てば風景が変わるということですね。
でも・・・、そうなのでしょうけれども、今のプロセスではスピード重視に偏ってしまって、結局は力でねじ伏せることも可能な組織力になってしまう可能性も否定できないと思います。反復をやめるタイミングをどう決めるのかは利害関係が出尽くして、体力的、物理的な限界がきたらということなので、その限界が本当に限界であり得るものなのかという疑問も残ります。特に大きな組織になっていくと藤村さんの意図が末端まで行き届くのかどうか。かと言ってなにもやらないでいると想像の世界で終わってしまうのでしょうけれども・・・。
五十嵐さんは、議論の場にでるのは必要で、既存のメディアがもはや議論ができないことに危機感をもっているとおっしゃっていました。「建築女子批判」の話題とも通じるお話ですね。藤村さんが議論の場を建築業界だけでなく、批評家であり哲学者でもある方達と接続した行動力はすばらしいと思います。この討議シリーズの展開は、建築系ラジオのメイン活動になっていますね。決して情報を流しているだけではないところが、新しいメディア足りうるということですね。
彦坂さんの感想が印象的で、主張には共感するが、作品が主張と結びついているわけではないとおっしゃっていました。方法論の落としどころが、無理をしなくてもすでに工務店等が落とし込んで成立しているものだと。落としどころと方法論が微妙に違うと。そこがどうも引っかかるところです。藤村さんの論理の建築家は石上純也さんのつくり方ではないかという事も。五十嵐さんが部分的には含めているけど普遍解にはなり得ないとおっしゃっていました。藤村さん自身も新体制としての組織の形態とは違うとおっしゃっています。なるほど、どんな新しい建築が生まれてくるのかという期待だけで見ていると、既存のものがもしかしたら対応しているのかもという視点が抜けますね。建築界の外からの目線の大切さを思いました。
倉方さんは、藤村さんの建築をどう捉えるかということをおっしゃっていました。作品論か、存在論か、方法論か。存在論を語って欲しかったと。これは、次回への前振りですね。
永山さんは、この先の展開をものでみせて欲しい。違うその先があるのかなという期待と疑問をもっている。次の作品でみせて欲しいとおっしゃっていましたね。やはり、彦坂さんの疑問点と同じ感想を持っているようです。
多分、若い人達が飛びつくのは、だれでも同じような手法ですばらしい建築ができるといううたい文句と、この手法がまだ未知のもので自分がうまくやれるかもという期待と、結果を導く手法が理解しやすいということなのではないでしょうか。でも、考えてみてください。反復をやめるタイミングをどう決めるのかは利害関係が出尽くして、体力的、物理的な限界がきたらということです。やっぱり、経験を積んだ実力者でしか良い建築ができないのではと思います。当たり前ですけど。軽い気持ちで飛びつくと危険な匂いがするのは僕だけでしょうか。藤村さんは実力があるので良いのでしょうけれども、安易に真似をするのだけは危険な気がします。要は、結果だけを求めずに、必死に頑張る方が確実だということです。
僕はギャンブルしない人間なので、しんどい方法がどうしても信頼できます。古い人間なのですね。時代に取り残されるかもしれませんね。誰にでもできるというのは難しいと思うのですが、皆さんはこのシリーズを聞いてどう思われましたか?
北川さんから、次回討論の前振りがありましたね!
まだまだ興味が尽きないシリーズですよ。
・関連項目
藤村龍至の批判的工学主義を問う!(藤村龍至vs松田達)[5/5]
最後は参加されたみなさんからの討議の感想です。
北川さんの質問に対して藤村さんが、愛なき力と力なき愛が切れているのが現代社会だと思っていて、2項対立を乗り越えるためには愛と力をつながなきゃいけない。それこそが批判的工学主義である。とおっしゃっていました。愛ある建築家が力を持てば風景が変わるということですね。
でも・・・、そうなのでしょうけれども、今のプロセスではスピード重視に偏ってしまって、結局は力でねじ伏せることも可能な組織力になってしまう可能性も否定できないと思います。反復をやめるタイミングをどう決めるのかは利害関係が出尽くして、体力的、物理的な限界がきたらということなので、その限界が本当に限界であり得るものなのかという疑問も残ります。特に大きな組織になっていくと藤村さんの意図が末端まで行き届くのかどうか。かと言ってなにもやらないでいると想像の世界で終わってしまうのでしょうけれども・・・。
五十嵐さんは、議論の場にでるのは必要で、既存のメディアがもはや議論ができないことに危機感をもっているとおっしゃっていました。「建築女子批判」の話題とも通じるお話ですね。藤村さんが議論の場を建築業界だけでなく、批評家であり哲学者でもある方達と接続した行動力はすばらしいと思います。この討議シリーズの展開は、建築系ラジオのメイン活動になっていますね。決して情報を流しているだけではないところが、新しいメディア足りうるということですね。
彦坂さんの感想が印象的で、主張には共感するが、作品が主張と結びついているわけではないとおっしゃっていました。方法論の落としどころが、無理をしなくてもすでに工務店等が落とし込んで成立しているものだと。落としどころと方法論が微妙に違うと。そこがどうも引っかかるところです。藤村さんの論理の建築家は石上純也さんのつくり方ではないかという事も。五十嵐さんが部分的には含めているけど普遍解にはなり得ないとおっしゃっていました。藤村さん自身も新体制としての組織の形態とは違うとおっしゃっています。なるほど、どんな新しい建築が生まれてくるのかという期待だけで見ていると、既存のものがもしかしたら対応しているのかもという視点が抜けますね。建築界の外からの目線の大切さを思いました。
倉方さんは、藤村さんの建築をどう捉えるかということをおっしゃっていました。作品論か、存在論か、方法論か。存在論を語って欲しかったと。これは、次回への前振りですね。
永山さんは、この先の展開をものでみせて欲しい。違うその先があるのかなという期待と疑問をもっている。次の作品でみせて欲しいとおっしゃっていましたね。やはり、彦坂さんの疑問点と同じ感想を持っているようです。
多分、若い人達が飛びつくのは、だれでも同じような手法ですばらしい建築ができるといううたい文句と、この手法がまだ未知のもので自分がうまくやれるかもという期待と、結果を導く手法が理解しやすいということなのではないでしょうか。でも、考えてみてください。反復をやめるタイミングをどう決めるのかは利害関係が出尽くして、体力的、物理的な限界がきたらということです。やっぱり、経験を積んだ実力者でしか良い建築ができないのではと思います。当たり前ですけど。軽い気持ちで飛びつくと危険な匂いがするのは僕だけでしょうか。藤村さんは実力があるので良いのでしょうけれども、安易に真似をするのだけは危険な気がします。要は、結果だけを求めずに、必死に頑張る方が確実だということです。
僕はギャンブルしない人間なので、しんどい方法がどうしても信頼できます。古い人間なのですね。時代に取り残されるかもしれませんね。誰にでもできるというのは難しいと思うのですが、皆さんはこのシリーズを聞いてどう思われましたか?
北川さんから、次回討論の前振りがありましたね!
まだまだ興味が尽きないシリーズですよ。
・関連項目
藤村龍至の批判的工学主義を問う!(藤村龍至vs松田達)[5/5]