2007年7月に、米田明さんの講演を大学の特別講義で聞いた事がありました。当時、「建築と野生」という題で講演されていて、過去のことが現在の建築にどんな影響を与えたかという内容でした。岡本太郎とコルビュジェ。つながっていないようでも、民族学の視点が二人に同じような行動を促し、各界に影響を与えていることを知りました。コルビュジェ最期の作品である「ヴェニスの病院」は幼少時代の経験がもとになったという分析でした。岡本太郎氏が万博で制作した太陽の塔の黒い過去の顔が、万博のお祭り広場に向かって立っていたのは、岡本太郎の思惑だったのではないかという話も面白かったです。講演当時の個人的な議事録を読み返しますと、
・日本の建築→多義的なもの→現代建築へどう生かすか?
・庭に興味がある。
・現代へどう生かすかは常に考えている。
・過去を考え尽くしたら、現代へ。
・先人の教えはなんだったのか、常に過去のものにせず新しいもの
として考える。
・過去のものを意図的に現代建築へ→尺度(とリンクして材料)尺
度ありき。
・日本の庭に感じる尺度。緻密に設定されている。距離感。
・体の感覚のなぜを常に考える。
と、建築系ラジオで述べられていたことに通じる内容をすでに言われていました。最後は、「K-Clinic」という当時の最新作の写真を見せていただいて、すさまじいキャンチの様子が、それまで静かだった会場をどよめかせたことを覚えています。
さて、今回のお話も、非常にワクワクする話でした。MP3のラジオだから聞き直せるのも頭に入ってきやすく得した気分になります。
枯山水を例に出されて、「見立て」による具象的な側面と抽象性、そして日本的な構成原理への還元のお話。僕は、日本的な、自然と背筋をシャキッとさせたくなるような凛とした空間と、閉じこもった感覚が少ない空間が気持ち良いと思っていましたが、それが何故かはまったく考えきれていません。それを、2つの配信を併せて40分程で「プチ崇高(=凛)」と「やぶれ(=開放感)」というモヤモヤが残らない分析を展開されるので聞いていてスッキリしました。具体的な建築空間としての事例は、これからの米田さんの作品を楽しみに待つだけです。
その他にも気になるキーワードがありました。
・石のような(存在の)建築
・目で見ているもの、体で感じているもの、思考
・スケールが無限大のものとリンクし、重層している感覚
(孔の多重化?)
あり過ぎて書ききれないくらいです。「借景」という言葉はよく使いますが、遠くのものを近くに呼び込む孔という見方は斬新でした。
それから、京都御所の松に対して、ここまで考え抜く人は他にいるでしょうか?都心にあって外から見ると景色としてとけ込んでいるのに、中からみると別の空間にある松。外からみる松と内から見る松は違う、と。松は松として、そこに突っ立っているだけなのに、ある境界のあちらとこちら側では、その松がまったく別の存在に見えるというのは、スゴイ発見ですね。そこに石のような存在の建築がつながっていくのですね。狭小住宅のお話がでましたが、日本の住宅事情を問題としない、逆に日本的で特徴的な空間に変える方法が見つかる可能性大ですね。それは、同じような都市への普遍性を持っている可能性がありますね。外部を取り込むのか、それとも、隣の内部空間を引き寄せるのか、孔は上か下か、虚像か、それともまったく違う手法か・・。テクノロジーの真行草も気になります。
ぜひ、また米田さんのインタヴューをお願いいたします。
(思ひ出のコメントー初出:2009.2.15)
・関連項目
米田明インタヴュー
日本の建築空間・その1〈やぶれる空間〉について
米田明インタヴュー
日本の建築空間・その2〈プチ崇高〉について
・日本の建築→多義的なもの→現代建築へどう生かすか?
・庭に興味がある。
・現代へどう生かすかは常に考えている。
・過去を考え尽くしたら、現代へ。
・先人の教えはなんだったのか、常に過去のものにせず新しいもの
として考える。
・過去のものを意図的に現代建築へ→尺度(とリンクして材料)尺
度ありき。
・日本の庭に感じる尺度。緻密に設定されている。距離感。
・体の感覚のなぜを常に考える。
と、建築系ラジオで述べられていたことに通じる内容をすでに言われていました。最後は、「K-Clinic」という当時の最新作の写真を見せていただいて、すさまじいキャンチの様子が、それまで静かだった会場をどよめかせたことを覚えています。
さて、今回のお話も、非常にワクワクする話でした。MP3のラジオだから聞き直せるのも頭に入ってきやすく得した気分になります。
枯山水を例に出されて、「見立て」による具象的な側面と抽象性、そして日本的な構成原理への還元のお話。僕は、日本的な、自然と背筋をシャキッとさせたくなるような凛とした空間と、閉じこもった感覚が少ない空間が気持ち良いと思っていましたが、それが何故かはまったく考えきれていません。それを、2つの配信を併せて40分程で「プチ崇高(=凛)」と「やぶれ(=開放感)」というモヤモヤが残らない分析を展開されるので聞いていてスッキリしました。具体的な建築空間としての事例は、これからの米田さんの作品を楽しみに待つだけです。
その他にも気になるキーワードがありました。
・石のような(存在の)建築
・目で見ているもの、体で感じているもの、思考
・スケールが無限大のものとリンクし、重層している感覚
(孔の多重化?)
あり過ぎて書ききれないくらいです。「借景」という言葉はよく使いますが、遠くのものを近くに呼び込む孔という見方は斬新でした。
それから、京都御所の松に対して、ここまで考え抜く人は他にいるでしょうか?都心にあって外から見ると景色としてとけ込んでいるのに、中からみると別の空間にある松。外からみる松と内から見る松は違う、と。松は松として、そこに突っ立っているだけなのに、ある境界のあちらとこちら側では、その松がまったく別の存在に見えるというのは、スゴイ発見ですね。そこに石のような存在の建築がつながっていくのですね。狭小住宅のお話がでましたが、日本の住宅事情を問題としない、逆に日本的で特徴的な空間に変える方法が見つかる可能性大ですね。それは、同じような都市への普遍性を持っている可能性がありますね。外部を取り込むのか、それとも、隣の内部空間を引き寄せるのか、孔は上か下か、虚像か、それともまったく違う手法か・・。テクノロジーの真行草も気になります。
ぜひ、また米田さんのインタヴューをお願いいたします。
(思ひ出のコメントー初出:2009.2.15)
・関連項目
米田明インタヴュー
日本の建築空間・その1〈やぶれる空間〉について
米田明インタヴュー
日本の建築空間・その2〈プチ崇高〉について