高橋堅さんのインタビュー。難しいお話でしたが、非常に面白い内容でした。視点の焦点による空間認識の違いや、線による空間認識、顔の構成、体験した空間の記憶が写真や図面の分析によって上書きされて、かつて体験した空間とイメージが相違してくるというお話でした。
パーステクティブの構成や、それの認識の話は難しいので、自分のレベルで感想を言いやすい内容である「体験した空間が、分析してできた空間の記憶に上書きされる事」について考えてみました。
記憶が書き換えられるというのは、実際の空間と分析した頭の中の空間それぞれの空間体験が別の物だということでしょう。
例えば「服」。この時期、朝着替えるのは寒いので嫌々着替えているのですが(苦笑)、服を着る前の服という存在は、他者であるという認識が働いていると思います。単なる「服」です。しかし、袖を通して着てみると、服を着る前のイメージとは別の存在になっていて、皮膚の一部のような、自分の体の神経が服にまで延びていったような存在になります。(特に値段が高い服・・・)極端に言えば、自分の体の一部になります。
この、毎日行っている所作においても、服に対して自分の体がどこに存在しているかが変化しています。服を着ていない状態の「服」に対しては、服が占める「領域」を自分が俯瞰しています。対象である服への視線と意識の集中は直線的であり、例えば、ホースの先に付けたノズルの「ストレート」にダイヤルを合わせた時と近い状態だと思います。自分の体の一部ではないという認識が強く働きます。この他者であるという認識は、高橋さんの言う写真や、図面、たとえ立体であっても決して中には入れない模型などの存在に対する認識と同じものではないでしょうか。写真や図面で体験する空間には自分の体が入り込んでいけないという点が大きいと思います。
対照的に、実際のロンシャンの教会の中に入ると、「着た服」と同様に体の一部として、皮膚の延長として空間が認識されます。もしくは、建築空間に体が取り込まれている状態です。ホースの先に付けたノズルが「キリ」に合わされた状態で、そのキリでシャワーを浴びている感じでしょうか(強引・・)。自分の体を包んでくれるスケールが何かを感じさせる作用をしていると考えます。
それにもう一つ、写真や図面による分析は、体を使いません。特に下肢をフルに動かしながら卓上で分析することは殆どないでしょう。NHKのテレビで、体を動かす事によって脳が刺激を受け、脳が成長するという番組を見た事があります。体ありきで脳が成長すると言うのです。実験で、仮想の赤ん坊に一定の運動と、関節の方向のみをプログラムして連続して運動させると、それ以外の命令はプログラミングしていないのに、最後はハイハイの姿勢になったという内容でした。
このことをロンシャンの体験に照らし合わすと、体を通じて無意識に感じられる情報が、高橋さんの興味をひいた正体なのでしょう。建築の内部をただ「歩く」だけでも、足の裏から床が「硬い」等の情報が入ってきたり、皮膚を伝わる風が建築の雰囲気を伝えたりと五感が駆使されることにより、頭の中の仮想体験とはリアリティが違ってきます。(ロンシャンに行ってみたいです。)
まとめると、
1.空間の中にいるか、外にいるか。
(スケール感、皮膚との距離感)
2.五感を刺激する動作を伴っているか。
が建築体験を別のものにさせる。この考えだと、体験を書き換える要因として、奥行き感は別の問題ということになります。
うーん、まとまっていますかね?なんだかおしいところまで来ているような、検討違いのような・・・。ロンシャンを特定して感じた体験的記憶の正体までたどり着いていませんね。・・・高橋さんの分析を期待します(笑!)
今、「建築国際展」の配信を聞いている最中です。知らないことだらけです。建築を勉強しだしてから、なんだか長生きしたくなりました(時間が足りません)。
また、感想をメールさせていただきます。
今年もよろしくおねがいいたします。
2009年 1月 9日
厚着が好きな学生 武智仁志
・関連項目
高橋堅 インタヴュー 円環するパースペクティヴ
パーステクティブの構成や、それの認識の話は難しいので、自分のレベルで感想を言いやすい内容である「体験した空間が、分析してできた空間の記憶に上書きされる事」について考えてみました。
記憶が書き換えられるというのは、実際の空間と分析した頭の中の空間それぞれの空間体験が別の物だということでしょう。
例えば「服」。この時期、朝着替えるのは寒いので嫌々着替えているのですが(苦笑)、服を着る前の服という存在は、他者であるという認識が働いていると思います。単なる「服」です。しかし、袖を通して着てみると、服を着る前のイメージとは別の存在になっていて、皮膚の一部のような、自分の体の神経が服にまで延びていったような存在になります。(特に値段が高い服・・・)極端に言えば、自分の体の一部になります。
この、毎日行っている所作においても、服に対して自分の体がどこに存在しているかが変化しています。服を着ていない状態の「服」に対しては、服が占める「領域」を自分が俯瞰しています。対象である服への視線と意識の集中は直線的であり、例えば、ホースの先に付けたノズルの「ストレート」にダイヤルを合わせた時と近い状態だと思います。自分の体の一部ではないという認識が強く働きます。この他者であるという認識は、高橋さんの言う写真や、図面、たとえ立体であっても決して中には入れない模型などの存在に対する認識と同じものではないでしょうか。写真や図面で体験する空間には自分の体が入り込んでいけないという点が大きいと思います。
対照的に、実際のロンシャンの教会の中に入ると、「着た服」と同様に体の一部として、皮膚の延長として空間が認識されます。もしくは、建築空間に体が取り込まれている状態です。ホースの先に付けたノズルが「キリ」に合わされた状態で、そのキリでシャワーを浴びている感じでしょうか(強引・・)。自分の体を包んでくれるスケールが何かを感じさせる作用をしていると考えます。
それにもう一つ、写真や図面による分析は、体を使いません。特に下肢をフルに動かしながら卓上で分析することは殆どないでしょう。NHKのテレビで、体を動かす事によって脳が刺激を受け、脳が成長するという番組を見た事があります。体ありきで脳が成長すると言うのです。実験で、仮想の赤ん坊に一定の運動と、関節の方向のみをプログラムして連続して運動させると、それ以外の命令はプログラミングしていないのに、最後はハイハイの姿勢になったという内容でした。
このことをロンシャンの体験に照らし合わすと、体を通じて無意識に感じられる情報が、高橋さんの興味をひいた正体なのでしょう。建築の内部をただ「歩く」だけでも、足の裏から床が「硬い」等の情報が入ってきたり、皮膚を伝わる風が建築の雰囲気を伝えたりと五感が駆使されることにより、頭の中の仮想体験とはリアリティが違ってきます。(ロンシャンに行ってみたいです。)
まとめると、
1.空間の中にいるか、外にいるか。
(スケール感、皮膚との距離感)
2.五感を刺激する動作を伴っているか。
が建築体験を別のものにさせる。この考えだと、体験を書き換える要因として、奥行き感は別の問題ということになります。
うーん、まとまっていますかね?なんだかおしいところまで来ているような、検討違いのような・・・。ロンシャンを特定して感じた体験的記憶の正体までたどり着いていませんね。・・・高橋さんの分析を期待します(笑!)
今、「建築国際展」の配信を聞いている最中です。知らないことだらけです。建築を勉強しだしてから、なんだか長生きしたくなりました(時間が足りません)。
また、感想をメールさせていただきます。
今年もよろしくおねがいいたします。
2009年 1月 9日
厚着が好きな学生 武智仁志
・関連項目
高橋堅 インタヴュー 円環するパースペクティヴ